憧れのもとに   二〇
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<<一九



   周瑜は四つん這いから泥だらけになった顔を上げた。
   今、瑜の目に草原以外のものは映っていない。彼は安堵のため息を出す。黄巾賊らしき姿が見られず、身の安全をひとまず確信したからだ。
   瑜は首だけ動かし、肩越しに後ろを見る。後から来る孫策に気を向けたからだ。
   瑜の視線の先に、再び泥だらけになった策が立っている。
「な、けっこう、簡単だろ?」
   策は顔や体にぬられた泥を気にした様子はなかった。
   「簡単」という言葉と泥だらけの姿の不一致が瑜にとって愉快だった。それでも瑜はこくりとうなずく。
   瑜は無駄と知りながら、体の泥を払い続ける。そして、彼は辺りを再び見回す。
   そうすると、右手のはるか奥に、大勢の人々がいるのを瑜は認める。瑜は目を凝らす。瑜の聞くところによると、黄巾賊は黄色の頭巾をしているから、黄巾賊らしい。だけど、瑜の瞳に、黄巾賊の象徴である黄色いものは入らない。もしかして、自分の目がおかしくなったかもしれないと、瑜は自身の眼を疑っていた。
   瑜は後ろから、ぽんと肩を叩かれる。瑜が振り返る先には策の神妙な顔があった。すぐに策は口を開く。
「あの軍勢は味方の軍だ!   援軍だ、間違いない!   羊太守は俺たちより一歩も二歩も先を行ってたんだ。あれは羊太守が呼んだ軍だ、きっと」
   策の顔と声に興奮の色があふれていた。
   瑜は、自身の目に間違いないことに安堵する間もなく、戦況を把握しようとする。策のいうようにあの軍勢が官軍だとすると、黄巾賊の軍を城の内外から挟み撃ちにできる、と瑜は理解する。それこそ、瑜が城の中で考え、援軍を求めることで、その手助けをしようとしていたことだけど、策のいうとおり、太守の羊興祖が先に援軍を求めていたようだ。
   瑜はまだ遠くにいる軍勢が官軍であると、心の全部で信じていなかった。だけど、羊興祖が援軍を呼んだということは信じられるような気がしている。
「あそこに行こう!   官軍の勝利を見よう!」
   瑜の右手は、肩からまっすぐに、遠くの軍勢を指していた。視線も鋭く、先を見据えている。
「ああ、もちろん!」
   策は喜々と答えた。すぐに歩き出す。
   瑜も歩き出す。策よりやや早足だ。
   策は瑜の速さにあわせる。やがて、瑜より一歩も二歩も前に出ていた。
   瑜はさらに素早く足を動かす。策に追いつき、通り越す。
   そうすると、すぐに策は瑜のとなりに追いつき、追い越そうとする。

   いつしか、泥だらけの二人は駆け足に軍勢の元へと向かっていた。


   周瑜と孫策は戦況を把握できる程度には近づいていた。
   城門を通って、城の中から次々とあふれ出る人々。その一人一人すべてが黄色の布を頭に着けている。その集団が黄巾賊だ。だけど、黄巾賊はただ単に城から出ているだけじゃない。
   城門の外ちかくには、官軍がいる。城門の外側、二つの集団が接するところにて激しい戦闘が繰り広げられている。
   瑜のところからは多くの人が重なって、細かく見られないでいたが、大まかな戦況を彼は理解していた。瑜と策が城の中に居たとき、羊興祖の軍は黄巾賊に攻められてばかりいた。だけど、羊興祖の指揮で、どうやら攻守が入れ替わったらしい。今、城壁の内側から黄巾賊が次々と出てきている。それを待ち受けていたかのように、城壁の外から別の官軍が黄巾賊を攻めている。
   城門の外側だけみると、官軍と黄巾賊は五分と五分のようだけど、瑜は城の内外両方から攻めている官軍が有利であるとわかっていた。
   瑜は城の中にいたときのことを思い出す、大群衆の前に立ち、舒を守るため、大声をはりあげたことを。彼には、そのことに気を向けるだけで、胸が高鳴る心地があった。彼が羊太守と共に鼓舞した官軍の兵卒たち、そして城内の住民たちが、今、城壁の向こうで黄巾賊と戦っている。彼はそう考えると、不思議な心地と誇らしさと高ぶる気持ちとか入り交じり、何とも言えない心地よい気分になっている。

   冬の風も涼しく心地よいぐらいだ。

「おい、周郎!」
   右の策は強く瑜に呼びかけた。瑜はのんびりと声のする方へ向く。夢心地の顔を見せている。
   瑜の視界には策が厳しい表情で左手奥を指さす姿があった。
   策はあまり間をあけず再び口を開く。
「誰かがこっちに向かっている!」
   策のその声だけでも、瑜は緊迫した状況を感じていた。すぐに瑜は策の指さす先を追う。瑜には一見、さっき見た官軍と変わらないように思えた。けれど、目を凝らすと、軍勢を背に、馬に乗りこちら側へ向かってくる者が一人、居るのがみえた。
「そうだね、伝令か何かなのかな」
   瑜はそう見て取った。その馬上の人物が自分たちに関係のある人物に思えなかったからだ。
「でも、まっすぐこちらに向かってきてないか?」
   策の言葉は断定的ではなかったけど、策の声はますます切迫していたものになっていた。
   瑜は策の言いたいことを真摯に受け止めるようにつとめる。
「馬首はこちらに向いてるし……馬上の人もこちらしか見ていないように見えるし……それに僕らのまわりには誰も人はいない……あれは間違いなく、僕らの方へ向かってきている!」
   瑜は言葉をつないでいる間に、今、何が起こっているかをつかみ、策と同じように危険を身近に感じた。
   だけど、瑜は次に何をするか何も思い浮かばないでいる。彼には何が起ころうとしているか理解できる。自らの体の内側からも外側からも恐怖と危険から高鳴っている。だけど、動けない、動こうとしない。突然のことに身も心も自分のものじゃないようにざわついている。
   何とか、目玉を動かし、策を見る。策はまだそちらをにらんだままだ。やがて、策の口が動く。
「周郎はどう思う?   あれは敵か?   味方か?」
   その策の声に焦りは少しもなく、決然とした重い口調だ。
   その言葉に瑜の心は一つのことへ向く。
「黄巾賊じゃなさそうだけど、やばいよ。あの勢いだと、どっちにしたって、僕らを攻撃してくるよ、きっと!」
   瑜の身は落ち着き、口だけ動かした。
   騎馬はどんどん距離を詰めてくる。
   策の眼差しは依然、動かない。
「もうこの距離だ……やはり、戦うしかすべはないか……俺だけなら、間違いなくあの騎馬にやられるだろう…だけど、おまえとなら活路を開けそうだ」
   そう言い終え、策は身構えた。
   瑜も策同様、覚悟を決める。
「騎馬が近くまできたら、間合いを見計らって、二人で一斉に飛びかかろう!   相手はまさかこちらが攻めるなんて思ってもいないだろうし、相手の懐近くの方が返って安全だ。それに二人が別々の方から飛びかかるんだから、相手は打点を迷うはず」
   自分でも信じられないぐらい、瑜の言は明快だった。
   策は微笑み、そしてうなづく。
   瑜に迷いはない。瑜は思う。きっと、策はそうでもないだろうけど、自分は馬上の人物に攻撃を加えられるほど、脚の力はないから、失敗するだろう。そして、無惨に敵の手にかかるかもしれない。だけど、それで策が活路を見いだすことができれば、充分だ、と思うし、満足だ。

   騎馬はいよいよという位置まで来る。
   瑜と策は瞬間の機会を伺い、身構える。

   ところが、策と瑜の予想に反し、馬首は途中で、曲がる。
   次の瞬間、馬上の男は、馬の背に両手を置き、自らの体を宙へと飛び上がらせた。
   馬の走る軌跡はそれて、その場から離れていく。
   両手で真上に飛び上がった男は、どさりと地面に両足で降りた。
   ちょうど、瑜と策の前に、直立している。

   一方、不意をついて飛びかかろうとしていた策と瑜の二人は、逆に不意をつかれた格好となり、打つ手を見失い、身動きがとれないでいた。
   瑜の心は素直に負けを認めていた。

   瑜と策の凝視の中、男は兜ぼう(かぶと)を少し上にあげ、口を開く。
「孫郎、ようやく見つけたぞ!」