憧れのもとに   二一
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<<二〇



   すべてはこわいくらいにうまくいっていた。
   その反面、今までの苦労や運のなさからいくと、当然だとも思うようになっている。
   寿春にいた頃、ふってわいてきた災難。簡単に済ませられるだろうと思っていたら、大事になっていたこと。自分の小ささに嫌気がさしたこと。それら嫌なことすべて今なら許せる気がする。

   呂子衡は大地に立ち、胸を張っていた。
   運が向きはじめたときから今までのことを瞬時に思い描くことができる。

   あれは官府へ乗り込んでいった頃だ、と子衡は思う。
   それは子衡が舒へ今すぐ援軍を出すべきだと進言しに行ったときだ。例え、黄巾賊の軍へ攻撃できなくても、援軍を舒の付近へ進めるだけで、賊軍が舒の城へ攻めることへの牽制になるだろう。援軍を維持する食糧なんて後回しだ。そう、彼は官軍の幹部へ言い放った。そこでしばらく幹部と問答になると彼は思ったが、そうではなかった。彼の考えは幹部とまったく同じものだったからだ。
   そのため、子衡はその幹部に気に入られ、あっさりと彼の従軍が認められる。
   それだけのことであれば、子衡自身のことだけだが、そこから先は子衡の身だけに留まらなかった。

   軍が舒の城へ到着すると、舒の官軍と黄巾賊の軍が交戦状態にあった。子衡のまわり誰もが、援軍に来るのが遅かった、と思っていた。舒の城が攻め落とされる直前に来たのか、と。しかし、状況は違っていた。舒の官軍が優勢になっていたのだ。
「今が攻め時だ!   敵の背後を突けるぞ!」
   子衡はおのれの考えが心から飛び出たのかと、一瞬、驚いたが、その声は援軍の幹部のものだった。
   そして、援軍が一丸となって攻勢にでた。
   黄巾賊は面白いように倒れていった。
   官卒(へいし)ではないとは言え、子衡は武装し馬に乗っていた。回りの官卒と同じように黄巾賊と戦おうと手綱をたぐった。騎馬の機動力を生かし、まず、軍勢の外に出て、黄巾賊の軍の横から攻撃しようという腹だった。
   ところが不意に子衡は遠くの方に自ら求めていたものを見た。いや、あまりにも彼がいるところから遠く離れていて、その時点では間違えていたのかもしれない。
   だけど、子衡には何故か間違いなくそれが求めていたものと思えていた。

   子衡が見たのは、孫策の姿だった。

   子衡はすぐに行動に出ず、まず後ろを振り返り、戦況を見た。
   そこには明らかな官軍の勝利が横たわっていた。
「これなら、俺がいなくてもいける!   勝てるぞ!」
   と、思わず声に出した子衡。にわか官卒として共に勝利を味わいたいという欲望を振り切り、本来の県吏(やくにん)の義務を真っ正面から向かい合う。寿春の一住民がそこにいるんだ。
   そして、顔も前へ向き直し、馬を駆けさせた。全速力だった。

   官軍が勝利へと突き進み、そして、子衡の責務も終わろうとしている。彼は得意の絶頂にいた。その喜びの勢いのまま、馬が駆けているようだった。
   子衡には寒風さえ心地よい。
「もっと駆けろ!   もっと吹け!」
   歓喜が口から漏れていた。

   やがて、子衡は馬から飛び降り、策の前に立ちはだかった。
   子衡は策の姿をきっちり確かめたかったので、兜ぼう(かぶと)を少し上にあげた。そのすぐ後に口から声が出た。
「孫郎、ようやく見つけたぞ!」



   周瑜は事態をつかみかねていた。
   策と自分とを害しようとこちらへ向かっていた人物が馬からおり、目の前に立っている。それだけなら、戸惑いをみせているだけだ、と割り切れるんだけど、相手の口から出た言葉には確かに「孫郎」というのが含まれていた。

   孫策の知り合いなの?   なら、なぜ、武装した姿で立ちはだかっている?

   策を見れば、次の行動がわかる、と思い瑜は、策を横目で見る。彼は策に動きをあわせようとする。
   策は動かない。瑜は動けない。
   幸い、目の前に立つ男も動こうとしない。もどかしい妙な間が続く。

   策は突然、両手を広げる。
「子衡もここに来たんだ……そうか、もしかして俺を捜しに来たのか?……俺はこのとおり、大丈夫だ、心配ない…」
   策は親しげに話し出した。瑜はその様子をみて胸をなで下ろす。
   瑜は男の方を見る。確か、男は策から「子衡」と呼ばれていた。
   その子衡は策の方へ微笑み返した。
   瑜の知るところではなかったが、きっと、感動の再会なんだろうと彼は思っていた。

   子衡は数歩、前に出る。

   がごっ

   瞬間、策と子衡の間から鈍い音が出る。
   瑜はすぐにわかった、それが何かを。子衡が策の頭めがけて、拳を振り下ろしたんだ。策は頭を抱える。
「痛いなー、何、すんだっ!」
   策は即座に叫んだ。対する子衡は口元が笑っても目は真剣だ。
「わかっているだろ?   俺をはめたことを?……もっとおまえをとっちめてやりたいが、それは後回しだ。ここはまだ戦場……安全なところへおまえを連れていかなければ」
   子衡のその言葉に、瑜は有無を言わせない迫力を感じ取っていた。
   策はあからさまな不満顔をしていたが、こくりとうなずく。
   瑜は今の状況に気が向く。高みの見物と決めていたけど、子衡が戦場から馬ですぐ来られたことから、ここは危険なんだ、と気付く。
   策の袖をつかみ、歩き出そうとした子衡は、はたと瑜の方を見る。
「えーっと……君は?……」
   子衡は瑜が誰かをつかみかねていた。瑜はにこりとする。
「周瑜です……それは良いとして……早く、立ち去りましょう」
   瑜は心の中の戸惑いを押し込めていた。この策の知り合いの言う通り、戦場から遠のくのが先だ。
「あー……その通りだな……でも、これじゃ、あの馬に乗れそうにないな。よし!   早足で離れるぞ」
   子衡は二人に呼びかけた。
   策は「あー」とぶっきらぼうな言葉を返す。
   「はい」と瑜は元気良く返事する。