憧れのもとに   一九
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<<一八



   煙がただよい、怒号が飛び交う中、馬信議は戟を振り回していた。
   長柄の先につけられた鉄器は、正確に官軍の兵卒たちの急所を幾度となく撃っていた。信議は戟を使う自分の腕を少し信じられるようになる。
   彼はこの信者たちを導く者、いわゆる渠師だ。しかし、気持ちの上では、まだ他の者たちと同じ、一信者、そして、馬元義の弟子だ。そのため、信議を信じて集う信者たちと同じ立場で戦いたいという気持ちが彼の中で根強い。
   その気持ちと将たる者の責務を自らの心に同居させ振る舞わなければいけない、と信議は常に自戒する。将は何かに秀でているべきだと彼は考えている。しかし、彼には何もないと自覚していたが、連なる戦の日々で戟の使い方だけはうまくなった、と彼は自嘲気味に笑う。
「ぐぁっ」
   また一人、信議の目の前で叫び倒れる者がいた。もちろん、その原因をつくったのは信議自身だ。戟の先端は疲れ知らずにますます勢いを増していく。
   信議自体は戦闘に際して絶好調だが、それと戦全体とは連動しないでいる。先ほどまで、官軍は牆(かべ)の向こう側から矢を射かけるだけの防戦一方だったが、今は牆から出てきて、信議の軍と近距離で直に戦っている。なぜ、急に官軍が積極的に戦うようになったか、信議はわからなかったが、その兆候はつかんでいた。牆の向こう側から聞こえる男の声、小男(おとこのこ)の声、それぞれでわきあがる大勢の声、それらの後、官軍の抵抗は強烈になっていた。
   それらの声を信議は、滅び行く者が最期にみせるあがきのように感じた。そのため、信議は全軍に全力で攻撃するよう、号令を発した。ところが信議の読みははずれた。官軍の勢いは衰えず、ついに牆のこちら側へと撃ってきた。
   不意をつかれた信議は全軍に号令を発するまもなく、今、こうして戟をふるっている。例え、彼がより多くの敵を倒そうとも、全体に少しも響くことがない。そのことは彼自身が一番、よくわかっている。彼の軍は敵に向けた弓のような陣形だったのに、今や彼を先端とした楔(くさび)のような形になっている。退却を余儀なくされているほど、彼の軍は押されている。

   しかし、戦わずにはいられない。悲願が叶うまで、あと一歩だったから。

   信議の軍の陣形は楔の形から糸の形のようになろうとしている。このままでは、敵に包囲されてしまう、と彼は熱い心に反し現状を冷静に分析する。そして、死んで楽になりたいという誘惑と彼は戦っている。
   彼は戦い抜くため、ついに決心する。
「全軍、後退だ!   ただし、陣形を崩すな!」
   信議は大声を出した。一気に全軍に伝わると彼は思っていないが、うまく命令が浸透するようにと願っている。とにかく、勢いは官軍の方が数段、上だ、まともに戦っては全滅する、と彼は焦る。
   背後にいる味方の気配を頼り、信議は前方の敵に戟で打撃を与えつつ、早い歩調で後退していた。ところが味方の気配が急に減ったので、ちらりと振り返ると、信議のすぐ後ろには四、五人ほどの味方しかいなかった。彼はすぐに悟った。彼の陣形は寸断されつつあると。
「我が軍の中ほどで指揮をとりたい。そのため、急いで、私は後退する。生き残りたい者は私についてこい!」
   信議はそう言い残しながら、きびすを返し、後方へ小走りにかけだした。
   まず、信議の前に、官軍の兵卒一人が立ちはだかる。信議は一度、立ち止まり、すぐその兵卒をしとめ、倒れた体を乗り越え、先を急ぐ。それを数回繰り返しながら、後方へ後方へと急ぐ。信議の後には、生き残りたいと強く念じる信者たちが続く。
   信議は目の前に立ちはだかる敵を払いのけようと、行く先へと気を向けていた。ところが、耳には背後からの悲鳴が届く。考えずとも、すぐにその悲鳴が味方の信者からのものだと理解する。彼の心に悲しみの楔が打たれる。しかし、彼は振り返らず目の前のことに取り組む。今、振り返ると彼自身も含めて、皆、全滅するとわかりきったことだからだ。
   ただ、信議の無念は内にとどまっているだけでは収まらない。
「必ず、ここを攻め落とす。だが、今は雌伏のときだ!」
   信議は無念を叫び声にして吐き出した。後に続く者たちはそれに同調するまもなく、防戦に忙殺されている。

   ようやく、信議の目の前が敵ではなく味方にかわる。その味方の面々は前を向いている者、後ろを向いている者、様々だ。それが陣形を乱している証拠だと彼はすぐに気付く。彼は焦り急ぐ。
「信議だ。私が来たからには大丈夫だ。とにかく道をあけてくれ」
   信議の焦りは少し声に出ていた。その声を聞いて道をあける味方の横を彼はすり抜け、陣形の中へ中へ、ずんずんと進む。
   信議の目に、彼を見て安堵感をあらわにする味方たちの顔が入ってくる。果たして、この私に彼らの期待に応えられるのか、と信議は自問する。彼の目標は馬元義。だが、今、それに応えられるなんて彼は思ってもいない。だけど、やるしかない。無理でも限りなく目標に近づくのだ。

   あるところまで行くと、信議は急に立ち止まり、敵軍の方へ振り返る。信議の前にも後ろにも左右にもに信者たちがいる。信議は腹に力を込める。
「全軍、ゆっくり撤退だ!   城門の外まで撤退だ!」
   信議は声をふりしぼった。
   自身が発した声に信議は耳を傾ける。そうか、城壁の外まで我々は引き下がるのか、と改めて彼は認識すると、心の内に怒りと悔しさとが入り交じったものが突如として現れたのを感じる。その矛先がどちらかというと、敵ではなく自分の不甲斐なさに向いている。馬元義どころか歴代の太平道の渠師との能力の差を彼は感じている。彼はおのれに無力感をおぼえている。
   信議の口から、崩れかけている陣形の一部へ支援の信者を送り込む旨が吐き出る。しかし、混乱した状況で、うまくそこまで伝わらない。支援の兵卒が動き出す頃、十数名の信者が敵刃に倒れる。そんなことが彼の軍の前列でいくつも起こる。それでも攻勢に出られない。彼と彼の軍は後進するのみだ。
   信議は自らの計画に自信があった。これならば、馬元義の念願は達成できると。しかし、現状は違う。敵の変化に対応しきれなかったという現実を目の前に突きつけられている。そして、もしかすると、これからの時代の変化にも対応できないのかという不安も抱いている。

   信議はなおも後ずさりしている。
   その場から逃げ出したいと信議の恐れは、彼自身によって体現されている、そう思えてならない。しかし、彼は笑みを漏らす。運命の皮肉がとても可笑しく思えたからだ。すぐに彼は彼自身に驚く。まだ、自嘲する余裕があるのかと、安心する。

   しかし、まだ城壁の外までほど遠い。