憧れのもとに   一八
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<<一七

   瑜はひらめく。その直後、前へ走りだしていた。
   瑜は台の前で一旦、止まる。そして、両手を台につけ、両腕を思いっきり伸ばし、体全体を持ち上げる。さらに左足を台の上にかけ、ようやく台の上へと彼は乗ることができる。
   台の上で、策がまだ声を発している。瑜は構わず、台の上で中腰から背筋を伸ばす。そして、人々の方へ振り返る。
   瑜の眼下には多くの人々がいた。彼には何人か把握できないほどだ。全員の目が瑜の方へ向けられている。彼は自らの体がふるえていることに気付く。彼は自身の胸が信じられないほど脈打っていることを知る。吐き気が彼を襲っている。
   それでも、瑜は、やり遂げなければと、強く念じる。そうすると、自然に彼は右腕を右にいる策の前に差し出していた。
   策は瑜の意図をくんでか、声を出すのをやめる。
   瑜は深く息を吸い込む。
「みんな、見て!   僕は子どもだ。でも、戦に出ている。それはこの城邑(まち)を守りたいからだ。家には、僕より小さい者や弱い者がいる。そんな者たちが亡くなるなんて考えたくないよ。みんな、そうでしょ?」
   瑜は喉から吐くような悲鳴に似た声をだした。
   策とは違うところ。それは始めから子どもだということを認めるところ。
   瑜が発言している最中、まわりが急に静かになった。彼はとても不安な気分になる。しかし、彼は、後悔なんかしない、と心に誓う。
「僕は黄巾賊がこわい。だけど、戦に出る。太守を信じている。太守についていけば、この城邑の平和は守られるんだって!」
   瑜は腹に力を入れ、出来る限りの大声を出した。静寂に包まれた場にその声が広がる。
   もう後はどうなってもいい、多分、この場から僕は引きずりおろされるんだ、と瑜は覚悟した。

   そのとき、静寂が一気に大歓声へとかわる。
   全部、戦への決意を表明した声だ。

   瑜は喜びに浸るよりまず耳をすました。そうすると、さっきより声の主が多いことに気付く。成功だ。瑜の胸は嬉しさで満たされる。僕はやり遂げたんだ、と。
   ふと、瑜は横目で右を見る。そこには策が右手で「善(よし)」と合図をおくっている姿があった。
   そんな瑜は策より近くに人の気配を感じる。彼はびくりとなり、顔ごと右を向く。そうすると、そこには羊興祖の姿があった。彼は見上げて興祖を見る。興祖は優しい顔でそれに応じる。
「ありがとう。助かった。後は、わしに任せてくれ」
   興祖は小声で瑜に伝えた。そして興祖は左手を瑜の左肩に置く。
   瑜は左肩に暖かいものを感じる。とても安心した気分になる。それと不釣り合いに、興祖から認められたと、彼は興奮している。

   興祖は正面を向く。
「我々にこんな小さな、しかし、とても心強い仲間がいる。この小さな仲間に負けていられない。今こそ、みんながみんな、力をみせてやるときだ。おのおの、持ち場につけ、今こそ、戦うときだ!」
   興祖は力強く号令を発した。
   少しの間もあけず、気迫のこもった、多くのかけ声が返ってくる。
   耳をかたむけなくても、瑜はそのかけ声がどこから来ているか、わかっていた。かけ声はこの場にいる全員の口から発せられている、と。

   かけ声の響きがおさまる前に人々は前進する。
   やがて、興祖、策、瑜が立つ台のよこを通り過ぎていく。
   いよいよ、この舒から黄巾賊への反撃が始まるんだ、と瑜は感動で身を震わせている。
   興祖はまた、左手で瑜の左肩をぽんと叩く。瑜はそれに応じ、興祖の方へ振り返り、そして見上げる。興祖は見下ろし瑜と顔を合わせる。
「わしはこれから舒の人々をうまく導いてやって、黄巾賊を追い払うという大役がある。だから、これで失礼する。おまえたちも頑張ってくれ」
   策と瑜の顔を交互に見て、興祖はそう言い残した。
   興祖は台から飛び降り、皆の向かう西方へと去っていった。

「よし周郎、俺たちも行くぞ。これでさっきおまえに、くってかかってきたやつらも見直すだろうし…」
   台上で策は右に立つ瑜に呼びかけた。
   策のいう、やつらとは瑜と先ほどいざこざのあった同年代の子どもたちのことだけど、瑜はそんなことがあったのをすっかり忘れていた。それより策がそのことにまだ気を回していたことに瑜は内心、驚いていたし、可笑しみを感じる。
   瑜は過ぎ去りし時のことよりこれから先のこと、自分のことより大勢のことに気が向いている。
「僕は行かない」
   瑜は鋭い眼光を瑜に向けた。策は眉間に皺を寄せる。
「どうした怖じ気づいたのか?」
   策は瑜の右肩をもち、左手を黄巾賊のいる方へ向けた。瑜は両腕を組み、策から視線を外す。
「そうじゃない。黄巾賊に正面からぶつかるだけだったら駄目じゃないかなって思うんだ。外側から攻撃する味方がいるかなって」
   瑜はまとまり始めた考えを口にした。
「おまえ、考えすぎじゃないのか?   これだけ勢いがあったら黄巾賊に勝てるって」
   策は困惑の声を出した。
   瑜は急に面をあげ、策をみる。
「そうだ、『援軍』だ!」
   瑜は喜びに似た声をあげた。
   しかめたままの顔で策は意味がわからない旨を瑜に伝えている。それを受けて瑜は続ける。
「僕たちが他の援軍を呼びに行けばいいんだ!」
   瑜はまたも声をあげた。策の表情は変わらない。
「おまえ自分のいっていること、わかっているのか?   まず城壁を越えないといけないし、越えたら越えたで、城の周りには黄巾賊だらけだし、そのあと、官軍のいる城邑までかなり歩くだろうし……」
   策はとくとくと瑜に語っていた。途中で瑜が口を挟む。
「きっと、近くの官軍はここの官軍と一緒に黄巾賊をせめたいはず……内からと外からで挟み撃ちが一番。だから、今、援軍が必要なんだ……それには孫郎がいないと駄目。君じゃないと城壁は通り越せないし…」
   瑜はやわらかな表情で策を見た。瑜は策自身がこの城邑の外からやってきたことを策に気付かせようとしていた。入ってきたなら出られるはずだ、と。
   策の表情もやわらぐ。
「そうだな、あんなこと、俺じゃないとできないしな……でも、城から出ても俺、ここらへんのことなんて知らないぞ。それに、どこに官軍がいるなんて知らないし…」
   策は得意げに話しはじめ、最後には疑問を抱いていた。
「城から出た後は、僕に任せて。何度も他の城にいったことあるし、官軍のいるところは聞いたことあるし」
   瑜はまっすぐな眼差しを策に向けた。しかし、瑜の内心は興奮と緊張と不安で穏やかではなかった。それが面に出ないよう、過剰なほど、瑜は表情を引き締める。
   そんな瑜を策はのぞくようにじろじろと見る。
   何かを思いだしたかのように、策は突然、にんまりとする。
「城から出るんだったら……おまえ、俺みたいに、服、汚れるぞ」
   策は楽しそうに瑜の服を指さした。
   つられて、瑜は自身が着ている服を見る。すぐに瑜は笑顔で策を見返す。大きなことをしようとする矢先、策が細かいことを口にしたことを、彼はほほえましく思っていた。
「はははは、そんなの洗えば、すむよ」
   瑜は笑い声をたてながら、答えた。
   策も一緒に笑う。
「じゃ、問題ない。行くぞ」
   すっかり人がいなくなった、台の下へ、策は飛び降りた。瑜も遅れてそれに続く。
   二人は人々と違う方へ走り出した。