憧れのもとに   一七
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   成し遂げた喜びに浸っている二人。
   そこへ人混みからの大歓声が立ち上がる。
   一瞬、何事かと、瑜は背後の人混みの方へ視線を移す。彼の視線の先には、確かに歓声を上げる人々の姿があった。そして、皆、一緒に、ある一点を見つめていることに気付く。
   瑜はそれらの視線を追って、再び前へ振り返る。
   人々の眼差しはある人物に向けられていた。その人物は右から中央へ歩き、そして、そこにあった丸太組みの台へと上る。
「諸君、よく集まってくれた。私が廬江太守、羊興祖だ」
   台へ上がった人物は良くとおる大声でそう名乗った。羊興祖の声が響き終わる前に、その場の人々はさらに大きな歓声をあげる。
   策も一緒になって何かしら声をあげていた。
   瑜はあまりにも突然のことに羊興祖の姿を瞬きもせず見上げているだけだ。
   瑜の目に羊興祖が映る。戦に備えた戎服とはいえ、廬江郡の長たる太守の服装とは思えないほど、とても質素な身なりだ。むしろ、瑜の服装の方がはるかに贅沢に思えるぐらいだ。
   羊興祖は歓声がある程度、止むのを待っている。
「緊急なので手短に言う……」
   興祖は先ほどと同じく遠くまで届きそうな声で言った。その声に呼応したように、そこの人々は静かになる。興祖は続ける。
「…黄巾賊からの攻撃はここ二日、やんでいた。だが、今まさに、再び、この舒へ攻めてきている」
   あたりの静寂の中で、興祖の声は響いた。その後、近くの人々がざわめく。
   瑜は、近くのざわめきと遠くからのざわめきを聞き分けていた。遠くからのざわめきは黄巾賊から攻められていて、それに応戦しているからか、と彼は納得する。だけど、それ以上に、目の前に突きつけられた現実に、緊張が全身をふるわせるのを感じる。
   最前列にたたずむ瑜はまた興祖の声に耳を傾ける。
   台上の興祖は再び発言する機会をうかがっている。
「だが、恐れる心配はない。ここにいる皆が一丸となって事に当たれば、黄巾賊を見事、追い返すことができる。二日前、城門を突破されたときと違う!   今はこれだけの勇者たちがいる!   さらに、この先で防戦している人もいる!   我々の前には凶悪な黄巾賊、そして、我々の後には愛らしい家族たちがいる!   いざ、全力でことにあたろうではないか!」
   興祖は一段と力強く言葉を発した。
   興祖に呼応する力強い声が、人々の口々から発せられ、辺りに響き、大きく力強く波打っている。
   声の波は瑜の体にぶつかり、通り過ぎていき、またぶつかる。その波に関係なく、彼は自らの体が常にふるえ熱くなっているのを感じる。彼は気付く、いつの間にか、自身も腹から声を出していることに。
「まだ足りない…」
   大勢の大きな声にその小さな声が混じった。それは策の声だ。
   瑜は突然なことにびくりとしていた。自身からの声が止んでいるのに彼は気付く。それに彼は策の言葉の意味がよくわからないでいる。何が足りないのか。
   瑜の横目にうつった策は腕を組んで、下を向いている。策は何を考え込んでいるのか、瑜にはわからない。
   策に気を回していると、瑜はふと大勢の声に違和感を感じる。そうだ、周りからの声は大きく力強いけれど、どこか、斑(むら)がある。わかった、みんながみんな、呼応して声をだしているわけじゃないんだ、声の勢いに惑わされそうになるけど、と瑜は思い始めている。とすると、策は声を出す人が足りないと言っているんだ、と彼は理解する。

   ここにいる人たちは何らかの形で戦に関わる人だけど、全員の心が戦に向いているわけじゃない。それが声になって表れている。策はそれを感じ取ったんだ。だけど、どうしようもないじゃないか。

   辺りは依然、大きな声が波打っている。そんな中で瑜は呆然としている。
   策は面を上げる。
「よし」
   策はそう一言、残し、前に一歩、踏み出した。
   それを見た瑜はあまりに唐突なことに胸の鼓動が一瞬止まる心地だった。
「孫郎、どこへ行くんだ?」
   その瑜の声がなかったように、策は前進していた。瑜の声はその他大勢の声にかき消される。
   策は前進する。
   それによって大歓声がどこも変わることがない。
   策は前進する。
   策は興祖が乗る台の前で立ち止まる。興祖はその策に気付く様子はない。
   策は台の上に一跳躍で飛び乗る。同じぐらいの歳とは思えないほどの跳躍力だ、と瑜は思う。もう、何が起こっても驚かないぞ、と瑜は腹を据える。
   策に気付いたようで、興祖は眼差しを下に向ける。興祖が何かを口にする前に、策はくるりと回り、台上で大観衆の方へ面と向かう。
「皆、訊け!」
   策は大勢の人々の声よりも力強い声を発した。周りからの声はやや弱まる。策は続ける。
「ここは廬江郡の郡都だ!   黄巾賊からここを落とされたら最後、廬江郡は賊に蹂躙されてしまう!   そして、東方の徐州のようにすぐ全土を荒らされてしまう!   だから……」
   策の声はよく響いていた。
   だけど、瑜は周りから失笑の声がちらほらとあるのを聞き逃さない。彼が思うに、策の言葉はその場にふさわしく、戦意を高揚させるものだったろう。しかし、策の見た目と明らかに子どもだとわかる高い声が、人々の反感を買っているのだろうと彼は見て取る。子どものくせに、生意気、言うな、と思われているに違いない。
   もう、人々に呼びかける前から、策に不利な条件だ、と瑜は見てられない気になっている。どんなに策が素晴らしい字句を並べても、それが返って人々から蔑まれてしまう。
   瑜は、はらはらしている。瑜はかすかに思う。僕が今の策だったら……