憧れのもとに   一五
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   子衡はこのままではいけないと気持ちを切り替える。うじうじ考えていても仕方がない、変な面目を捨てて、これは良い機会だ、考えるんだ、という思いを心の内で彼は奮い立たせている。
「俺、決めました。その官軍に同伴します」
   子衡は決然とした目を幼台に向けた。
   幼台は涼しげな笑顔で応じる。
「策を探すのをあきらめたのですか?」
   と幼台。相変わらず、その表情から似合わないような鋭い一言がでる、と子衡は妙に感心する。
「いや、そうではありません。孫郎を探しだし寿春へ連れ帰ることは片時も忘れたことはありません。ただ、今までのように、黄巾賊からの危険をさけながら、探していたら、いつまでたっても探せないってことです……それだったら、いっそのこと、官軍をうまく導いて、黄巾賊を攻撃してやろうという考えです。それにあなたがおっしゃったように、黄巾賊から孫郎を護る意義もあります」
   意を決した子衡は晴れやかな表情で言い返した。幼台は満足そうにうなづく。
「その思い切りの良さにとても感心しました。その様子だとあなたぐらいの下級官吏が官軍の動きに影響を与える困難さを知ってのことでしょうから、決心は相当のものでしょう。なるほど、兄が私にあなたの良さを話すわけです……」
   幼台の言葉に子衡は驚き、思わず口を挟む。ここで出てくる幼台の兄はすなわち孫文台のことであると子衡は知っている。
「孫文台様が俺のことをですか!」
   子衡の声は上擦ったものだった。彼にとって、孫文台が彼のいないところで彼自身のことを話題に出すことは意外でもあったし、嬉しいことでもあった。
「…ええ、兄はときおり、人物評めいたことを言います」
   幼台は子衡の言動に少し戸惑いを見せていた。
「孫文台様は俺のことなんて気にとめてないって、正直、少し疑うことも   ありました。だから、俺、嬉しいです。それに、孫文台様の傘下に入れるきっかけをつかんだようで…」
   子衡は喜々とした声をあげた。
「ええ、兄は目をかけた人物を配下にすることもあります。義理の弟や親類の者、それに遠方から兄を訪ねに来た者など、様々です」
   幼台は愛想の良い表情を強めようとも弱めようともせず話していた。一方、子衡は顔に喜色を強めている。
「そうでしょそうでしょ。やっぱり俺はいずれ、そういう場に身を置くんですよ」
   子衡は相変わらず上機嫌な様子を見せていた。
「兄ならば、将来的にそうするかもしれませんね…………しかし、私は、あなたにはそういうふうにどっぷりと士官に身を浸して欲しくないと思っています」
   幼台は話の流れに逆らうような一言を口にした。
   子衡の表情は一瞬で凍る。しかし、彼は幼台に何かしらの思慮があると考え、落ち着こうとする。
「それはどういうことですか?   俺が今の孫文台様のように反乱を鎮める軍にいるのは分不相応だと言いたいのですか?」
   子衡は相手から悪く思われないように感情を押し殺し言葉を選んだ。
   幼台は視線を少しの間、そらす。
「いや、そうではありません。むしろ、あなたなら兄の配下で、優秀な隊長になれることでしょう……だが、その任だけだともったいないと言いたいのです。あなたなら官だけではなく、民にも通じる立場にもなれます」
   再び、視線を戻した幼台は、朗らかな表情の中から、子衡の目を見つめた。
   子衡は否定されたと思った矢先に肯定され、相手の意図するところを見失っている。彼は眉間を狭める。
「それは買いかぶりすぎじゃないですか?   賈人のあなたらしくない。それに、あなたは俺のことをあまり知らないはずだし……」
   子衡の声に戸惑いの色が強く出ていた。
「確かに買いかぶりすぎかもしれません。だけど、出発前の決心したあなたに、私は確かにその種の才能を見いだしました。これは理屈で説明できません。言うなれば、賈人の勘ともいうべきものです。それに、少なくとも、私が今回の件に関わろうと心を動かされたことは確かです」
   幼台の声にいつしか熱が込められるようになっていた。
   子衡の困惑は解けることなく、より強くなる。
「俺のことを気に入ってくれるのは嬉しいです……でも、どうも私にはあなたのおっしゃりたいことがよくわかりません……俺にいったいどうしろと?」
   子衡は抱いた疑問をそのまま口にした。
   幼台はにこりとほほえむ。
「いえ、今がどうだとか、言っているのではありません。どうか、安心してください。ただ、将来的に、この幼台の私客を預かってほしいのです」
   幼台ははっきりと子衡に伝えた。
   子衡は心中でその言葉を反芻する。個人的に雇われた人物が「私客」だが、なぜ、幼台が彼自身に私客を預けるのか、彼にとって意図の見えない要望である。
「私客?   まさか俺に県吏をやめさせ、俺を雇おうと言いたいのですか?   それならば、お断りします。以前もそういってくれる人がいたんですが、俺は県吏の職にほこりをもっています……」
   子衡が言い終える前に、幼台が口を挟む。
「いや、勘違いしないでください。県吏の職はそのまま専念してください。その上で、私客を預かってほしいのです……あなたも実感があると思うのですが、今は世が乱れています。つい、二、三年ぐらい前は辺境の出来事だったのに、黄巾賊の反乱のように今はこんなところまで戦火が来ています。あなたも一年前に故郷を離れ寿春に避難したのでしたね。策や義姉も、黄巾賊の反乱をさけるため、下ひから寿春へやってきました。私はこの世の中の乱れは少なくともあと十年は続くと考えてます。反乱を鎮めるのに、官軍の力が必要ですが、今やそれだけでは足りないと思います。現に目の前で起こっている黄巾賊の侵略に官軍はすぐに対応できてません……つまり、反乱に対抗できなくとも、住民の命を助ける存在が他にも必要だと考えてます」
   幼台は言葉を切った。あとはあなたが私の意図を汲んでください、とばかりに。
   子衡は両腕を前に組む、考える。やがて、彼は面をあげる。
「だから、俺に私客を持たせたいということですか…」
   子衡の発言の後、間髪入れず幼台が発言する。
「もちろん、それは将来の話であって、今の話ではありません……だから、今は返事は結構です。さあ、今、目の前で起こっていることに取りかかりましょう」
   幼台は変わらない朗らかな表情をしていたが、その声に、この話はここまで、と言った有無を言わせない迫力が備わっていた。
   突然の会話の終わりで、子衡に疑問だけが残された。果たして、彼が私客を持つことで、幼台に利点はあるのか、県吏の仕事を優先する彼は具体的に何をすればいいのか、と。しかし、幼台にあこがれを抱きつつあったことを彼は自覚している。官の要職につかずとも、影で世のため動いている姿に彼はあこがれを抱いている。
「では、俺はこれからここの官軍の要人に話をしてきます」
   子衡は幼台に一礼した。
「はい、いってらっしゃい……あなたのことですから、心配はないでしょうけれど、くれぐれも気を付けてください」
   幼台も一礼した。
   子衡は再び軽く礼をし、側にある門へと去っていった。