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憧れのもとに 一〇 |
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<<目次 <<小説本編の入り口へ戻る <<〇九 馬上の呂子衡は目を細め、遠くを見つめていた。 子衡の視線の先に、城壁がある。その城壁を見ると、嫌でも彼の目に入ってくるのが、幕舎の群だ。 その幕舎は黄巾賊の陣営であると、子衡は知っている。だけど、彼の予想を大きく越えた軍勢だった。 子衡は一つ大きなため息をつく。 「結局、孫郎に会わず仕舞いで、舒に着いてしまいましたね。あいつはいったいどこにいったんでしょう」 子衡は振り返り、馬に乗る孫幼台に声をかけた。子衡の言葉も声も穏やかだったが、眉間のひだに、いらつきを表している。 この道中、子衡はいろんな城邑で孫策のことを尋ねまわり、策らしい子どもを見たという話を何度も耳にしていた。しかし、そのどれも策が去ってから四半日は経っていたらしく、どんなに急いでもその差は縮まる感はなかった。そして、ついに彼は策の姿を見ずに目的地まで着いてしまっていた。 孫幼台は穏やかな顔を子衡に向ける。 「あなたは、策に言いたいことが山ほどあるでしょうが、それより、策の身を案じた方が良いかもしれませんね」 幼台は表情を崩さなかった。それが返って、子衡の気を幼台の言葉へと向けさせる。言葉はそのまま子衡の心を揺さぶる。 「そ、孫郎の命が危ういと言いたいのですか?」 子衡は少しだけ声を詰まらせた。子衡の考えの中に、彼が孫策を説教することしかなかったので、彼は策が危険な目に遭うなんてことに気が回らないでいた。幼台にそれを指摘されたようで、彼は動揺する。 「いろんな可能性を考えた方が良いと言いたいのです。まあ、策のことですから、命に関わるような無理はしないでしょう。おそらく、この近くのまだ陥落していない城邑にでも居るのでしょう」 幼台は、自分の何気ない言葉が子衡を驚かせてしまったことに気づき、安心させようとしていた。 「それならば、良いのですが…」 子衡は顔にはっきりと憂いを表していた。 ここに来るまで子衡は廃墟となった郷(むら)を目の当たりにしたことを思い出した。それは黄巾賊の手によるものだと、彼には分かり切ったことだったが、なぜだか内心、今までそのことと策のことがつながらないでいた。 幼台の言葉で、子衡の心は落ち着きを取り戻せずにいた。むしろ、時が経つに従い、焦るばかりだった。 「ともかく、あなたには策を見つけだすこと以外にも、この黄巾賊の現状を書簡で報告するという仕事があるではないですか。そちらも始めた方がよろしいかと思います。策のことはそれからでも遅くありません」 その心境を見透かしたのか、幼台は別のことを切り出した。 子衡はこくりとうなずき、手綱を引いて、馬首を東に向かせていた。 十歳ぐらいの小男(おとこのこ)が二人、並んで城邑の小道を小走りに急いでいる。 一人が泥塵で汚れた姿をしていて、一人がさっぱりした見かけをしている。 二人とも手に甕(かめ)を持っていて、視線を手元にちらちらと落としている。急ぐ足に反して、水があふれないよう、手を落ち着けようとしている。 片方のさっぱりした小男は、急に立ち止まる。 遅れて、もう片方の汚れた小男は立ち止まり、後ろの小男に振り返る。 「どうした、周郎。おまえしか、みんなの居場所、知らないんだぞ。まさか、道、間違えたのか?」 肩越しに小男は声を出した。周郎と呼ばれる小男はまじまじと見返す。 「孫郎、ちょっと、甕をおろして、体をこっちに向けてよ」 そう言った後、周瑜自らも、慎重に甕を地面へ置こうとしていた。 孫策は体を動かさず、眉間だけを狭める。 「なんでだ? 急がないといけないだろ? おまえの家のやつもおまえがいないのに気付いて追っかけてくるかもしれないし」 策のいらつきが少し声に出ていた。ようやく、瑜は甕を地面に置いて中腰のままだ。 「いいから、早く!」 有無を言わせない瑜の口調だ。 しぶしぶ策はゆっくりと甕を足下におろす。 「さあ、言うとおりにしたぞ。いったいなんだ?」 策は完全に瑜の方へ向き、直立していた。 瑜は策の元へ一歩進み、彼の姿をまじまじと眺めている。策の顔はますます不機嫌さを表す。 「おまえ、何がしたいんだ?」 策は思わず声に出した。瑜はその声を気にしている様子を見せない。 「このままだとまずいな…」 策との目があった時点で瑜はそうつぶやいた。 「だから何が?」 策はそのまま目を細めた。瑜は策の顔を指さす。 「その泥だらけの顔だよ。体全体とは言わないから、その顔を何とかしないと、ちょっとみんなの印象、悪いかなって…」 そう言いながら、瑜は自然と視線を外していた。策は思わず、両手で自らの両頬をこすり、視線を落とし両手を見る。 「ははっ、また、忘れてた」 策は無邪気に照れ笑いをした。 瑜は声を漏らして笑い返す。 「その消火用の水を少し使えば良いんだ。そうすれば、顔もましになると思うよ」 瑜の指は策の足下にある甕を指さした。 「そうだな、これ、ちょっと使えばいいだな…」 策はそう言い残し、甕の水を両手ですくい、勢い良く自らの顔をこすった。策の顔から落ちる水は茶色くくすんでいた。 |