憧れのもとに   〇九
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<<〇八


「で、どうなったんだ?   兵卒二人が襲ってきたんでしょ?」
   少年は話の先をうながした。策は一呼吸おいて話し出す。
「そうそう、それで、俺ははじめ戦ってやろうと思ったけど、味方を傷つけるようなことなんてできないじゃないか。だから、走って逃げた。だけど、なかなかその二人を振りきれない。走ったら、別の兵卒がいて、それでまた、走ったら、また別の兵卒がいた。そんなことがずっとだ。それに初めの兵卒が大声をだして、俺を捕まるようにし向ける…」
   策は次々と言葉をつないでいた。
「へぇ、今ここにいるってことは捕まらなかったんだね」
   と少年は合いの手を入れた。
「そうだ。兵卒たちから、何とか逃げてきた。でも、ここの城邑はどうなっているんだ?   兵卒以外の者も戦に参加しているみたいで、行く先々で不審人物扱いを受けた。俺たちぐらいの歳のやつも甕(かめ)を持ってたな。ありゃ、多分、燃えている建物の火を消そうとしているんだろ………そういえば、おまえは行かないのか?」
   策は話し続けるのを急にやめ、疑問を少年に投げかけた。
   少年は、その疑問が彼自身の胸にちくりと刺さるような気分でいた。
「ん、まぁ、もうすぐ出かけようと思っているんだ…」
   少年の口から、はぐらかす嘘の言葉が出ていた。少年の心に罪悪感と恥とがわき上がったが、彼はそれらを奥底へ押し殺す。
   策は「ふーん、そうなのか…」と一言だけ残し、話を続ける。
「それで俺は、にぎやかなところをさけ、なるべく静かなところに行こうとした。それで、来たのがここの屋敷ってことだ」
   策は自慢げに話し終えた。
   少年は深く納得する。自分の家は誰一人、太守の呼びかけに応じようとしないので、まるで、戦が同じ城邑で起こっていないような静けさがあったからだ。少年は、その静けさの一端に自分も荷担していると思うと、策がここへ来る前の悔しさを思い出すようになっていた。
「そうか、たいへんなことがあったんだね……」
   少年の心中とは関係なく、口から出る言葉は策のことだった。
   策は少し得意げな笑みをこぼす。
「まあ、勝手におまえの家の入ったのは悪いと思っているけど、そういうわけだから、勘弁してくれ」
   策の口調は軽やかだ。
   反対に少年の気分は重い。
   策はこうして城壁も兵卒たちも軽く飛び越えて、ここに来ているというのに、自分は家から一歩も出られないでいる、と少年は表情に出さないまでも悩んでいる。


「そうだ、おまえ、城邑のやつらに俺のこと、紹介してくれないか?」
   少年が少し物思いにふけていたとき、孫策は突然、話を切りだした。
   少年はあわてて、耳に残った策の言葉に気を向ける。そうか、僕に策が黄巾賊じゃないことを証明してほしいってことだな、と彼は納得する。
   納得した勢いで思わず、少年は首を縦に振っていた。
   策は、にこやかな表情で喜びをあらわにする。
「そうか、引き受けてくれるか。じゃ、早速、着いてきてくれ……どうせ、おまえもすぐに兵卒たちのところへ行くんだろうし」
   策は強引に少年の手を持ち、外へ連れ出そうとした。
   少年はつられて数歩、進んだところで踏みとどまる。冗談じゃない、そのまま外へ出たら母親にこっぴどく叱られてしまう、といった彼の心境だ。
「ちょっと待て、策。まだ早いって…」
   少年の一言で、策は立ち止まり、振り返った。
   少年が言い訳に言葉を選んでいる間に、策が口を開く。
「そうか、俺みたいなのが、おまえと一緒にいるところをおまえの家族に見られたら話がややこしくなるからな……別々に外に出てあとから会えばいいのかな……でも、また俺が兵卒に会ったら、元も子もないし……」
   策は自分が作り上げた説で奇妙に話を進めていた。
「そう、そこなんだよ。悪いけど、一緒には……」
   少年は策の勝手な推測にうまく乗って、誘いを断ろうとした。その言葉をいいおえる前に策は口を挟む。
「そうだ。俺が入ってきたのと同じ道で、この家から出ていけばいいんだ。そうすれば、おまえの家族に俺が見つかることはないだろうし、外に出て兵卒と鉢合わせになってもおまえが説明してくれればいいし」
   策は畳みかけるように話し続けた。
   少年はその勢いに飲まれず、冷静に考えようとする。はじめ、策が自分を連れ出そうとしたときは、外に出る禁を犯す罪をさけようとしていた。だけど、元々、外に出て、少しでも城邑を守るお手伝いがしたいという強い気持ちが彼自身の中にはある。それに、策のいう道で外に出れば家族や従者に出会うことはなさそうだし、うまくいけば、何事もなかったように帰ってくることができる。
   少年は決心する。
「よし、策。僕を外へ連れていってくれ」
   少年の眼は決意により鋭いものとなった。策は喜びの表情でそれに応じる。
「そうこなくては」
   策は少年に背を向け、歩き出した。今度は少年の腕をつかんでいない。
   数歩、歩いたところで、策はまた振り返る。
「あ、言い忘れていたけど、俺のことを『策』なんて呼び捨てにするな。俺は年上からも慕われて『孫郎』って呼ばれているんだ。おまえもそう呼べよ。いいか?」
   策は言い放った。
   少年は、策がこだわる理由をよく理解できないでいたが、ここで彼を不機嫌にさせると厄介と思い、素直に頷いてみせる。
   策はまだ何か言おうとする。
「そういや、おまえの名前、訊いてなかったな。なんて言うんだ?」
「僕の名前は周瑜だ。みんなからは……」
   少年は自らの名前までは言ったが、途中で言葉を詰まらせた。彼は身近な人から「阿瑜」と呼ばれていたが、その呼称を言ってしまうと、策が上で彼自身が下というような立場に決まってしまいそうに彼には思えた。彼は咄嗟にあることを思いつく。
「そう、みんなからは『周郎』と呼ばれている。君もそう呼んで」
   少年はあえて手段を選ばなかった。
「なんだ、俺と同じような呼ばれ方してんだ。よろしくな、周郎」
   孫策は周瑜と名乗った少年の肩をぽんとたたき、外へと歩き始めた。