憧れのもとに   一一
185/08-
<<目次
<<小説本編の入り口へ戻る
<<一〇

   中腰で何度か顔を洗った後、すくっと立ち、策は瑜に顔を見せる。
「これでいいか?」
   策が声を出す前に、瑜は彼の顔を見ていた。
   瑜は口を開けていた。だが、そこから声を出す気配を見せようとしない。ただ、彼は策の顔を眺める。眼差しの先に、彼にとって、ついさっきまで泥に埋もれていたとは思えない顔があった。均等のとれた顔。それでいて、とげとげしくなく、優雅なところがある。だけど、全体的に見る側へ覇気が伝わってくるような感じだ。
「おい、いいんだろ?」
   策は強めに声を投げかけた。瑜の体は一度、小刻みに揺れる。
「えっ?   ああ…」
   瑜は我に返った後、視線を落とし、軽くうなづいた。彼はばつが悪いと思い、再び、しゃべりだそうとする。
「…いや、まさか、君がそんな格好いい顔をしてるなんて思わなかったから」
   言い終えた後も、瑜はきまりが悪いと感じていた。
   策は眉根をゆがませる。
「それを言うな。俺、気にしてんだぞ…」
   不快な声が策の口からもれていた。さらに続く。
「…俺のまわりのやつは大人でも、俺の容姿ばかり褒める。俺の強さとか賢さとか勇ましさとか見てくれやしない。そりゃ、顔は、母ちゃんに似てるって言われるし、俺もそれは認める。だけど、そんなのちっとも嬉しくない。俺は父ちゃんみたいに強い男になりたいんだ」
   策の声に熱が込められていた。
   策の言う彼の母や父のことなんて、瑜は知るはずもなかったが、彼の言おうとすることを感じることはできた。策が今まで見せた常軌を逸した積極性、瑜はそれをなんとなく納得できるような気がしている。
「そうなのか……じゃ、これから力の見せどころだね」
   瑜は明るい表情を見せた。内心、よく言うよ、と彼は自らをそう評した。
   策は引き締めた表情をゆるめる。
「そうだろ?   だから、俺はわざわざ遠くまで来たんだ!」
   策は照れもせず破顔していた。
   瑜は策の屈託のなさをうらやましく思い始めていた。実際、瑜が家に居たときに抱いていた葛藤は、策によって見事に解き放たれていた。瑜にとってそれさえ解消されていれば、後で叱られようが咎められようがかまわないと思っている。
「じゃ、そろそろ行こう。早く、みんなに君のことを教えたくなったよ」
   瑜は甕(かめ)を地面から持ち上げようとした。
「ああ、そうだ、行かないと始まらないしな」
   策は甕を地から離しながら言っていた。
   二人は道の先へと小走りに急ぐ。



   榻の上に座る男は、幔幕をわざと開け、遠くに立ち上がる煙を眺めていた。

   馬信議にとって冬の冷たい風が入ってくるなんて問題ではない。ただ、彼は馬元義の意志を榻の上からでも感じていたかった。
   目の前のことは、信議が信者たちの陣頭に立ってした結果だろうが、それは紛れもなく馬元義が成し遂げようと日々、信議に語っていたことだった。目をつぶれば、すぐに信議は元義の語る姿をみることができる。
   全員一丸となってで事に当たれば、できないことはない、と元義は信議へ口癖のように語っていた。その言葉を聞くたびに信議は胸を躍らせていたし、実行の日へと時が近づくのを楽しみでいた。
   信議は馬元義の信仰する太平道のことを表面的にしか知らない。しかし、馬元義のかかげることなら信じられる。彼だけじゃなく、馬元義の元に集っていた信者たちはそういう人々ばかりだった。
   はじめは皆、どこにでもいるような百姓だったんだろう、と信議は自らの立身と重ね合わせ、心に描いていた。そんな純朴な百姓が今のような闘士になったきっかけは、単純なこと。百姓たちはみな、官府から不当な取り立てをされていたことだ。いや、それを官吏からどこも同じだと言いくるめられ、不当だなんて思わないでいた、と彼は思い出す。ただ、彼を含めた多くの人は飢えていて、今日はどうやって食いつなごうかだけを考えていて、不当かどうかなんて考えているゆとりを持ち合わせていなかった。
   そんなときに余所から信議の前に表れたのが馬元義だ。
   馬元義はまず、そこの百姓が他とどう違うかを伝えた。あなたたちは一部の権力者たちに虐げられていると。それを耳にすると、みな、内なる憤りが喉からどころか自然と体全体から表れていた。しかし、彼らにはその怒りをぶつける先を見つけられないでいた。

「その怒りは、わしにはよくわかる。だが、今はその怒りをまだ押さえておくのだ。そしてきたるべき日に解き放とう……そう、皆でそんな悪い世の中をつぶしてしまおうではないか」
   信議はいつの間にか、当時、馬元義がいった言葉を自らの声でなぞっていた。
   それから後も、信議を含む百姓たちは相変わらず飢えをしのぐ日々だったが、今までなかった奇妙な活気を持っていた。

   変わり始めるときを待ちかまえていたから。皆の力で世の中を変え始めるときを。

   もうこのころに、皆は馬元義の弟子という自覚を持っており、密かに同じ立場の者に声をかけ、信者を集めていた。元々、信議たちのように不当な税により日々の生活に苦しむ者が後を絶たなかったので、一気に信者の数が増えていったのだろうと、信議は推測していた。初めに弟子になった百姓たちのうち、特に身を削って奉仕した信議は、自他、そして馬元義の認める一番弟子となっていた。
   当時、馬元義は内部から攪乱するために中央政府というべき、京師へ何度も足を運んでいた。だか、信議が今、考えるに、それが間違いの元だったのかもしれない。馬元義はそのとき、敵に捕まった。

「そして、あの方はそのまま帰らぬ人になってしまわれた」
   すべての悔しさは、信議のその一言に集約されていた。
   信議の胸中では、その悔しさが再び、ぶり返してきていた。
   信議は思いを巡らす。今まで舒の富をなるべく手に入れようと、舒へ降伏勧告を出していた。だが、それでは、今、信議の心中に湧いたこの屈辱感をはらすことができない、と彼は思い始める。
   まるで蓄えることの知らない、飢えた虎のように。
   信議は下唇をかむ。
「やはり待てないな」
   信議は立ち上がり、眉間の皺を深めていた。