憧れのもとに   〇八
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「あー、やっと人を見つけた」
   そんな脳天気な声が少年の耳に入った。
   少年のいる部屋近くには家族も従者も居ないと思いこんでいたから、彼は驚きで身を一瞬、こわばらせる。
   少年は声のした部屋の入り口の方へ面を上げる。彼の眼差しの先に、小男(おとこのこ)の姿があった。
   少年と同い年ぐらいの小男だ。だけど、彼のまったく見覚えのない子。それに土汚れがひどく、顔まで泥だらけだ。
「君、だれ?」
   少年の言葉には、なぜ、知らない子が自分の家に居るのか、という意味が込められていた。
「俺か?   俺は孫策だ」
   突然の来訪者はそう名乗った。孫策と自称する小男は、少年の意を汲まず、言葉通りの返事をした。
   少年は怪訝な表情を孫策に返す。
「そうじゃなくて……なぜ、僕の家に今、君がいるんだ?」
   次こそ、伝わると少年は期待した。場合によっては取っ組み合いになると彼は覚悟し、自然と牀から立ち上がっている。
「そうそう、それだよ。よく訊いてくれた……」
   孫策は朗らかに返していた。策の痛いところを突いたつもりだった少年にとって、それは拍子抜けの返答だった。
   そんな少年の様子を気にせず、策は話し続ける。
「俺は、ここ、廬江郡が黄巾賊に攻められていると聞いた。だから、手助けしようと寿春からここまで来た……」
   と策。その話にすぐ少年は疑問を持った。寿春がここより北の方へ五百里ほど行ったところの隣の郡にあると、彼は知っていた。彼には、策がどれほど遠くから来たかより、気になることがある。
「ちょっと待って。ここには高い城壁もあるし、それに城壁の周りには黄巾賊がいっぱいいる。それなのに外からここまで来るなんて嘘に決まっている」
   少年はやや興奮気味に策の言葉を遮った。目の前の小男は嘘をついている、と彼は疑っている。本当はこの城邑の人間なのでは?、と。
   策は鼻から一息だし、話し始める。
「嘘なんか、ついてないさ。これでも結構、苦労したんだぞ。『城邑へ入れないのが当たり前だ』って思わず、あきらめずに城壁の周りを見てて、俺は抜け道を見つけた。中から水が出ているところだ。大人だったらとても通り抜けられない小さなところだから、行こうと思わないだろうし、そこを攻めようとも思わないところだけど、俺の体の大きさだと何とか通り抜けられた。そこから中へ入ってきた」
   孫策の目はまっすぐ少年の目に向けられていた。
   少年は策の曇りのない瞳をみているとその言葉を信じたくなっていた。それにその話だと策の泥だらけの体も少年には納得ができる。
「だからといって、なぜ、君がうちに入って来るんだ?」
   信じたことにしなければ話にならないとばかりに、少年は話の続きをうながした。
   策は泥がかった眉間にしわを寄せる。
「そこだよ、そこ!   俺が必死になって黄巾賊の目をあざむいて、城壁の中へ入ったのに、ここの住民はなんだ!   俺を黄巾賊よばわりして追いかけてきやがったんだ!」
   孫策は押さえていた憤りをあらわにした。
   少年は、その突飛な怒りもなぜ策がここにいるのかもよく理解できないでいる。こういうときは少し立ち戻って訊いた方がいいと、少年は腹を据える。
「ちょっと待って……黄巾賊を欺いて、城壁をくぐり抜けてきたんでしょ?   それから、どうなった?」
   少年は両腕を前に組み、穏やかに孫策を見据えた。策は自らの記憶から呼び起こされる興奮を抑えられないでいる。
「そこだよ、そこっ。俺が城壁を越えてようやく中に入って……すぐに兵卒が二人、とんできた。『黄巾賊が城壁へ進入してきたぞ』って俺を倒そうとした。俺に確かめもせず、いきなりだぞ。それに、こんな、いたいけな子どもをどう見たら黄巾賊と間違えるんだ!」
   策の身振り手振りを交えた言葉で、ようやく少年は事態をつかみ始めた。
   少年は想像する。黄巾賊に城門が破られ緊迫状態にあるところに、突然、城壁の内側に、泥だらけの子どもが現れたところを。
「ははははは」
   少年は声を出して笑っていた。突然の見知らぬ来訪者への警戒と緊張とがとけて、笑い声として吐き出されている。
「何が可笑しいんだ!」
   策は怒りの矛先を少年にかえた。
   少年はひるまず驚かず笑顔のままでいる。
「ごめんごめん。そんな泥だらけの人が、いきなり城壁の外から現れたら、それが子どもでも、誰だって黄巾賊って思うよ。そんな光景を思うとおかしくておかしくて…」
   少年の楽しそうに笑っていた。
   策はおのれ二の腕や胸をまじまじと見る。そして彼は手で頬をこすった後、その手のひらを見る。
「本当に俺、今、泥だらけなんだな……ははは、そりゃ、誰だって怪しむか」
   その言葉の後、策は大きな声で笑っていた。