憧れのもとに   〇六
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<<〇五

   少しでも時が惜しいと、子衡はその場から急いで発とうとした。しかし、すぐに幼台に背後から肩を片手で捕まれる。子衡は咄嗟に振り返る。子衡の視線の先には、幼台の賈人(しょうばいにん)らしい笑顔があった。
「黄巾賊がどこまで潜んでいるかわからないうちに、舒へ向かうのは危険ですよ」
   幼台は穏やかに伝えた。子衡は苛つく様子を隠そうとしない。
「それを見極めるのが私の任務です。それは覚悟の上です」
   子衡の声に厳しさが混じっていた。それでも幼台は態度を改めない。
「富春孫氏の商売網を頼れば、あなたの身はまだ安全だと言いたいのです」
   幼台はさらりと言った。子衡は耳慣れない言葉に戸惑う。
   子衡が知っている「富春孫氏」とは、ここよりはるか南にある富春という邑(まち)を本拠にした孫氏のことである。幼台も、孫策の父である孫文台も富春孫氏であり、孫文台は官吏(やくにん)であるため例外だが、その他の人間は全員、賈人であると、子衡は耳にしたことがある。確かに幼台がここ寿春まで商売の手を広げていることから、その商売網は広く張り巡らされているのだろう。それは子衡が所属する一介の県府より頼れるものに違いがない。
「確かに身の安全が保障されるでしょうが、俺が富春孫氏に頼る道理がないし、ましてや関係がないことです」
   子衡は一刻もはやくその場を発ちたがっていた。幼台は一笑する。
「私があなたに同行するとなると無関係ではいられないでしょう」
   幼台の一言に子衡の表情は一変した。
「同行?   あなたは舒に行くと言うのですか?」
   予想外のことに子衡は先を急いでいることも忘れ、狼狽した。幼台は優しい眼差しを向けたままだ。
「はい、舒へ行きます。私と兄は、人生で違う道を進んだとはいえ、同じ富春孫氏です。だから、甥のしたことは、私の責任でもあります。それにできれば義姉さんに知られるより早く、策に帰ってきて欲しいですし……」
   幼台が話している最中に子衡は口を挟もうとする。
「ですが…」
   何かを言おうとすると、子衡は幼台の鋭い眼差しに気付き、思わず言葉を飲み込んだ。それは子衡が寒気を感じるほどであったが、すぐに幼台の顔は何事もなかったようにいつもの穏やかなものになっている。
「それと、黄巾賊には富春孫氏の商売の縄張りを荒らしたという貸しがあります。この機会に返してもらった方が良さそうですから」
   幼台の言動の穏やかさとは対照的に微笑む目の奥には異様な鋭さがあった。子衡は怖さを感じるより頼もしさを感じている。
「では、喜んで同行をお願いします……俺は県府に任務を引き受ける旨を伝えにいきますが、その後すぐに出発できるでしょうか?」
   子衡の決意は彼の口から滑らかに出た。
   すぐに幼台は了解の返答をする。
   二人の足取りは同時に表通りへと向かった。



   馬信議は群衆の真ん中にいた。
   つい先ほどまで、まわりの誰でも信議の思いのままだったが、今は違う。
   皆、目標となるものしか見えていない。
   こうなっては信議にすら止められない状況だ。

   目標、それは舒の城邑に攻め入ること。
   城邑に向かって力強く流れる部下たち。
   それをせき止めるかのように立ちはだかる城壁。
   この勢いであれば、城門が破られるのも時間の問題だろう、と信議はほくそ笑む。
   信議の歩調はあなどりなく力強い。
   一歩一歩、城壁へ近づく。城壁の上の転射の隙間から矢先がこちらを向いているのがはっきりと見える距離まできていた。
   速い間隔で矢が来る。しかし、信議はうろたえない。それらの矢はこの勢いを止めることができないと知っているからだ。
   もう、信議の心の中は、城門を破られた後のことでいっぱいだ。

   信議には、今までの渠師とは違うという自負があった。
   単に数の勢いに任せて、城邑を攻め滅ぼすだけではない、という考えもその自負から生じたものだ。
   信議は部下達にある命令を下した。
   城門を破った後、城の中で火をかけろ。但し、火が辺り一面に燃え広がったときに城の外に出る、というものだ。
   舒を攻め滅ぼすのはたやすいが、手に入れるのは少々、考えが必要だ、と信議は思っている。信議の狙いは、舒の人々に力の差を見せつけ、降伏をうながすことだ。

   信議は一歩、一歩、前へ進む。