憧れのもとに   〇五
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<<〇四


   子衡がしばらく考えた上で、「行きそうなところは特に思い当たりません」と言おうとした。ところが、その声が出る前に、店の方から小さな人影がやってくる。
   二人ともはっとなり、薄暗いところから光の射し込む方へと目をやる。二人の眼差しの先には、十歳ぐらいの小男(おとこのこ)が立っていた。子衡は、ちょうど影になっている小男の顔をまじまじと見つめる。歳は孫策と同じぐらいだったが、策とはまったく違う、おっとりとした雰囲気の小男だった。
「父さん、策のことなんだけど…」
   その子は幼台にそう呼びかけた。子衡は幼台とその小男が親子であることを知る。幼台は壁から背中を離し、一歩、その子に近づく。
「なんだ、ロ(こう)、盗み聞きは良くないぞ……まぁ、策のことで何か知っているんだったら、詳しく話して欲しいな」
   幼台は父親らしく、厳しい顔、優しい顔と順々に見せていた。ロと呼ばれた小男はこくりと頷く。
「策は内緒だって言ってたけど、まさか本当にするなんて思ってなくて……策のやつ、舒へ行くって言ってたんだ」
   ロはうつむきながら告げた。
「舒だと?」
   幼台と子衡の二人は上擦った声を同時にあげた。直後、二人は互いの顔を見合わせる。
   子衡は幼台も同じことを思ったのだろうと察する。
   舒はここ寿春より南へ四百里以上、先にある城邑である。そこへ行くだけであれば、二人がすぐに驚くことでもなかったかもしれないが、半月ほど前から、その城邑は黄巾と呼ばれる賊徒から攻められていたことを子衡は知っており、孫策の身の危険を案じたからだ。子衡は、幼台が同じことを案じているのか確かめたくなる。
「舒で何が起こっているのか知っているのですか?」
   子衡は幼台に顔を向けた。子衡の意図を幼台はくみ取る。
「私は、はるか南の富春に本店がある賈人です。ここと富春の間にある舒のことは商売上、知っていなければならないことなもので……黄巾なんて、一年前まではるか西やはるか北の出来事と思っていたんですが、かなり東や南へ主戦場がうつったみたいですね、商売あがったりで困ったものです」
   幼台は苦々しく語った。
   子衡は幼台の側で叱られまいかと怯えているロに気付く。子衡は一歩近づき、中腰になる。
「ロとかいったよな、おまえ……策のことを教えてくれてありがとよ。なーに、策のことは心配するな。俺に任せておけ」
   子衡は満面の笑みを見せ、ロの肩をぽんと叩いた。ロは笑みを返す。
「父からも礼を言うぞ……ありがとう。よく言ってくれた。もう下がっていいぞ、ロ」
   幼台もロに笑顔を見せた。ロは元気良く返事し、店の方へと戻っていく。
   それを見送ることなく、幼台は、腕を組み、再び壁に体を預ける。子衡の視線は鋭く幼台のその姿に向けられている。
「ロの言ったことが本当かどうか、あまり確かめずに帰したんですか……その様子ではもう確信があるようですね」
   子衡は明確な理由を持っていなかったが、なぜか幼台がそのことをすべて知っていると信じていた。
   幼台の姿勢はそのままで動く気配がなかったが、彼の唇はゆっくりと動く。
「策は変わった子供で……普通、子供の自慢話だと嘘が混じったり大げさになったりするのが当たり前ですが、策にはそれがまったくありません。多分、策がうちのロに言ったのは自慢話の類ですが、まるっきり装飾のない真実です。それに、知っての通り、あいつの家族は東の下ひから黄巾賊に追われ、この寿春へ引っ越してきました……そのとき、よほど黄巾賊から家族を守れなかったことが悔しかったのか、いつか反乱討伐の役に立ちたいと孫策は言ってました。だけど、なぜか数日でそんなことは一言も口に出さないようになって……おそらく今朝、旅立つときのため、胸中に秘めてたのでしょう」
   幼台はうつむいたまま、つぶやいていた。子衡の疑問はまだとけない。
「それだったら、依然、黄巾賊の反乱が続いている下ひに旅立ってもいいようなものでしょ?   なぜ、南の舒なんですか?」
   子衡はまだ鋭い眼差しを幼台に向けていた。幼台は考え込んでいる様子のままだ。
「下丕での黄巾賊は徐州全体に反乱を広げているほどだが、舒はせいぜい二つの県をまたいでいるだけです。向こう見ずな策でも、そこらの分別はできるようですね…」
   幼台の言動はとてもおだやかなものだった。それに対し、子衡は居ても発ってもいられない様子で、落ち着きがない。
「俺、決めました。舒へ向かって、孫郎を連れ戻してきます」
   子衡の力強い声が辺りに響く。幼台はようやく面を子衡に向ける。子衡はそれを認め、話を続ける。
「実は俺、舒に行くかどうか迷ってたんです。県令さまが昇進の機会にと、舒への偵察任務をやってみないかと、俺に話を持ちかけてきたんです。それだけ期待されているんだなと嬉しい反面、そんな任務、こなせるか不安で不安で……」
   子衡は幼台に心の内をあかした。子衡の目は幼台ではなく、ここに至るまでの光景に向けられている。任務を受けるか受けないか、その迷いにより先ほどまで、意味もなく大通りを歩いていたことに。
   そして、今、孫策を探し出す件により、子衡の心は一つに定まる。
「孫郎は馬に乗って舒まで行っているでしょうが、何としてもそれまでに追いついてみせます。まあ、そのときには説教の一つもしてやりますが……とにかく、俺は急ぎますので、これにて失礼します」