憧れのもとに   〇四
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<<〇三



   足をせわしなく動かしながらも、子衡は、とんでもないことに巻き込まれているのではないかと不安を抱いている。先ほどの江姫の話によると、どうやら、彼自身が彼女の息子である孫策を旅に連れ出していることになっているらしい。それも、策が今朝早くに家を出ていると彼は先ほど聞いていた。そこから判断して、それが単なる子供の冗談や悪戯の類ではなさそうに彼は思えていた。
   とにかく、他人事では済まされそうにない、と感じた子衡は足をとめてその場で考え込む。そういえば、ここはどこだ、と彼は面を上げ辺りを見回す。そうすると、先ほどの場所より賑やかなところにいることに彼は気付く。

   そうだ、俺はいつの間にか市井(いちば)に出ていたんだ、と。

   まったく、かなり遠くまで歩いてしまった、と子衡は愚痴を一人こぼしていた。しかし、そこは思い悩んでいたことを解決できる場所かもしれない、と彼はひらめく。
   子衡は少し歩き、とある店の前で足をとめる。客らしき人が何人かいる中、彼は一人の人物を見かける。いきなり、店頭で会えるなんてついている、と彼は心中、喜ぶ。
「孫幼台どの」
   子衡の呼びかけに、孫幼台と呼ばれる一回り近い年上の男は振り返った。孫幼台は孫策の叔父にあたり、また呉江姫の義弟にあたる人物だ、と子衡は覚えている。
   孫幼台は客の肩越しに子衡へ返事する。
「呂子衡どのではないですか。私はてっきり孫策ともう出発したと思いましたよ」
   賈人(しょうばいにん)特有の笑みを浮かべながら、孫幼台はゆっくりと店先に立つ子衡の元へ歩いた。続けて幼台は一礼し、遅れて子衡も軽く一礼する。
「出発?   もしかして、あなたも私が孫郎を連れて旅にでるとお思いですか?」
   子衡は不安が現実になるのを感じていた。孫策が彼の尊敬する人物の息子であることから呼び捨てせず、「孫郎」と彼は敬意を込めて呼んでいた。しかし、内心、策に対し、彼は腹立たしさを抱きはじめている。
   一体、策はどういうつもりで俺の行動を偽って言いふらしているんだ、と子衡は苛立ち始めている。
「ええ、私は策や義姉(ねえ)さんからそう聞きましたが……違うのですか?」
   幼台は丁寧な口調で返事をした。
   子衡は、その声で物思いから我に返り、幼台にそれを悟られてなかったかと少し照れている。子衡は気を取り直し話し出す。
「違います。俺は孫郎と旅になんて行きません。呉江姫さんからもさっき同じことを言われました。だけど、そのときはよく状況を掴めなかったから、はっきりと正しいかどうか言わずに別れました。はっきり言って、俺、困ってます」
   子衡は眉をひそめ、幼台に訴えかけるような視線を送った。

   幼台は店頭の客を気にしながら子衡の肩に手を置き、人目のつかない店の側の横道へといざなった。その薄暗い中で幼台は壁に背中からもたれかかり、子衡と同じ様な険しい表情を返す。
「よく状況をつかめなのですが……とにかくあなたは困っているということはわかりました。どうか、落ち着いて話してください」
   幼台は言葉の最後に、賈人のそれとは違う微笑みを子衡に向けた。子衡は少し安心した様子で、一旦、深呼吸をする。
「俺は孫郎と十数日も会ってないですし、それに俺は旅にでる予定なんてありません。初め、呉江姫さんから聞かされたときは、子供がよくやる、その場しのぎの言い逃れで孫郎は嘘をついたと思いました……だけど、あなたにまで孫郎は嘘をついたんでしょ?   そしたら、それは計画的に俺を陥れようとしているってことじゃないですか!」
   一旦は穏やかになっていた子衡だが、言い終える頃には再び興奮し声を荒げていた。幼台は朗らかな表情を崩さない。
「例え相手が子供でも、一方的に決めつけるのはどうかと思います……まずは本人に確認しないと…」
   幼台は落ち着いた調子で話した。幼台の平然とした態度に子衡はおのれを省みたかのような恥じらいをみせ、一呼吸をおいて話し出す。
「そのとおりかもしれません……まずは俺が孫郎に話を……そういえば、やつはどこに?」
   子衡は話している途中で、思いついた疑問をそのまま口に出していた。
   幼台は、顔を横にふり、「知らない」という素振りをした後、両腕を組み、考えている様子を見せていた。それでも彼はぼそぼそと口を動かす。
「子供のいたずらだったら、夕方には戻ってくるでしょうが……私の知っている甥っ子なら、その程度の嘘はつかないような気がします。それに私の知る限り、近頃、策が旅に出たがっていたことは確かですし…」
   幼台は孫策について手がかりになりそうなことをなるべく話していた。