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憧れのもとに 〇三 |
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<<目次 <<小説本編の入り口へ戻る <<〇二 北からの風がいよいよ冷たくなり始めたころ、県吏(やくにん)姿の若者が、城邑(まち)の大通りを歩いていた。 この城邑は寿春と呼ばれる古都で、廃れることなく、今なお、いにしえの威厳を保っていた。 そのため、日が中空にある頃、その大通りには大勢の人が歩いている。 一見、大人びた威厳をもつが、まだ表情や仕草にあどけなさの残る若者は、その間をかきわけるわけでもなく、流れに逆らわず、のらりくらりと歩いている。 通り過ぎる者は皆、その若者の方へ必ず振り返る。 県吏がこんなところでふらふらと歩いていれば、誰でも驚いてこちらへ向く、と若者はぼんやりと思っている。しかし、若者はその態度を改めようとはしなかった。 そんなとき、若者は背後から右肩を小刻みに叩かれる。 「呂子衡さんではないですか。こんなところで会うなんて奇遇ですね」 肩を叩かれた若者が振り返った先に、ひとまわり年上の女性が立っていた。すぐに若者は「呉江姫」という名を思い浮かべる。 若者が尊敬する「孫文台」という人物の妻にあたる女性なので、忘れようがない。その女性は、若者の故郷を救おうとした人の妻だ。 すぐに若者は挨拶を返そうとする。 「どうも、こんにちわ。確かに奇遇ですね。この大きな寿春の城邑で偶然、会うなんてめったにないことですから」 そう言いながら、若者は笑顔で礼をした。 少し遅れて呉江姫という名の女性もお辞儀をする。彼女は顔を上げたとき、何かを思い出したかのように胸の前で両の手のひらを叩く。 「そうそう、呂子衡さん、このたびは、うちの息子の策がお世話になります…」 そう言うと、また江姫は呂子衡という名の若者にお辞儀をした。 呂子衡は内心、戸惑う。それは江姫にお礼を言われる覚えがなかったからだ。 子衡はすぐに記憶を辿る。呉江姫とその夫、孫文台の間にできた息子といえば、三人、居たはずだが、策という名は確か、長男で、十歳過ぎたぐらいの年齢だ、と彼は思い出している。そして、彼がここ数日、その策という名の息子と会ってないことも確かだが… 子衡がきょとんとしていることを見てとり、江姫は彼女自身、何のことを話しているのか伝えようとする。 「ほら、策を旅に連れて行ってくれるのでしょう? もうあの子ったら、一ヶ月ぐらい前から旅に出たい旅に出たいってうるさかったんですよ。でも、一人で行かせることなんてできないでしょ? だから呂子衡さんが一緒に行ってくれるって聞いたときは、とても助かったって思いました……」 江姫は矢継ぎ早に話していた。 子衡は自らの直感にしたがって、思い出したというような笑顔でうなづき続ける。だが、彼にとって彼女のいうことはまったく身に覚えのないことばかりだった。とにかく、ぼろが出ないうちにその場を立ち去ろうと彼は決心する。 「それはそれは……こちらも嬉しくなりますね……では、急ぎますので私はこれにて…」 子衡は江姫に気付かれないように表情や仕草の一つ一つまで気を配っていた。そして軽い会釈でその場を立ち去ろうとする。しかし、江姫は引き続き、話そうとする。 「今から旅立つんですね? あの子ったら、よほど、この旅を楽しみにしてたんでしょうね……今朝早く、家を出ていったんですよ。いくら何でも早すぎますが、あの子にしてみれば、待ちきれないって心境だったんでしょうね……あ、私と話していて遅れたなんて、あの子に知られたら後で何を言われるかわからないので、どうぞ、いってらっしゃいませ」 江姫は照れ笑いをしながら、別れのお辞儀をすました。 子衡はさっきまでの足取りと違い、人をかきわけながら、まっすぐ大通りを進む。別に、あてはなかったが、とにかくその場を離れたいと彼は思っていた。 |