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憧れのもとに 〇一 |
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<<目次 <<小説本編の入り口へ戻る <<小説を読む前に。 若者は通りを急いでいた。 普段なら草木の寂しくなる季節に浸ろうと、まわりに目がいくはずなのに。 若者は県吏(やくにん)の服装をしている。 しかし、日常の公務を振り払い、ただひたむきに走っている。 若者はただ一人の男に一目、会いたがっていた。その男が旅立つ前に。 若者の名は呂子衡。相手の名は孫文台。文台は子衡より十歳ぐらい離れている。 昨日、会ったばかりなのに、という言葉ばかりが若者の心によぎる。 初め、呂子衡が孫文台のことについて知っていることと言えば、軍をひきいて、子衡の故郷を襲った賊たちを退治したということだけだった。 呂子衡は、その礼を言いたいがために、昨日、孫文台に会いに行った。そして、彼は、あわよくば、西方へと遠征に向かう孫文台に従軍を申し立てようとしていた。 そのときまで、呂子衡は、世の中のいろんなところで反乱や侵略が起こっているのに、そこへ行って何らかの形で戦えない自分に腹を立てていたし、惨めな気分でいた。 ところが、孫文台は、そんな呂子衡を肯定した。 曰く、地に足をつけ、身の回りの人々を護る姿勢はすばらしいと。 子衡にとって、文台のその言葉は、子衡の願いに叶うものではないことを意味していた。 だから、初め、子衡は不満をもっていた。だけど、文台といるときが経つにしたがって、子衡の考えは変わっていた。 そのとき、子衡は自らの視野がどんどん広がっていくような気がしていた。 文台と別れる頃には、子衡の考え方は変わっていた。 子衡は、昨日のそのときから、現状の自分に自信が持てるようになっていた。 昨日のことを思い浮かべながら、子衡はなおも走る。 その文台が今日すぐに旅立つと、子衡は先ほど、耳にしたからだ。 文台がこの城邑(まち)を出る前に、今度こそ、本当の礼を言いたいと子衡は強く望んでいた。 呂子衡が孫文台の家へと向かっていると、行き先に二十人ぐらいの集団を見かける。 その集団には、様々な年齢の人々が含まれている。 それより子衡は左側に独りで立つ人に目がいっていた。 それは孫文台だった。 子衡はそれが送別の集いであることがわかった。 子衡が昨日、会った、文台の妻や子たちがいるからだ。 あと数十歩というところで、子衡は走るのをやめ、歩きながら、息を整える。 まだ文台たちはこちらに気付いていない。 あと、十数歩というところで、ようやく文台は近づく子衡に気付く。それほど、文台はまわりの人々と話し込んでいた。 「なんだ、呂子衡じゃないか。そんなに汗、かいてどうした?」 文台は子衡の方へ顔を向け声をかけた。 「私は…あなた様が今日、いきなり…この寿春からいなくなるなんて…知らなかったのです……だから、急いでこの場にやってきました」 子衡の声は荒々しい呼吸でとぎれとぎれだった。 いきなりの来訪者に文台の右側にいる取り巻き全員が子衡の方を向いていた。文台は顔だけでなく体も向ける。 「そうか…どこかで聞いたんだな。あまり、気をつかわせても悪いと思ったんで、わざと知らせずにいたんだ。それに数ヶ月もすれば、ここ、寿春に俺は帰ってくると思うしね…」 文台は悪びれもせず、言葉を返した。そして、彼はにこりと笑みを見せる。 「…しかし、よくぞ、来てくれた。遠くへ行く前に、おまえの顔も見ることができうれしいぞ」 文台は子衡の肩をぽんとたたいた。 子衡は満面の笑みでそれに応じる。 文台は一度、右の遠くへ眼差しを向ける。そして、また彼は子衡に面を向ける。 「昨日、おまえに伝えたいことは全部、言ったから、今さら特に言うことなんてないけど……そうだな、『ここの城邑の安寧はおまえに任せた』といったことだろうな、しいてこの場で言うなら」 文台は、はにかみながら話した。 子衡はこくりとうなずく。 |