「京師まで三千八百里」   七、中牟
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「どうも、正義感の強いおまえと、賄賂ってのは、どうやってもつながらない」文台は右手を顎の下に持っていき地面を見下ろし、若い眉間に深いしわをよせた。そして再び公偉に疑念を乗せた眼差しを向ける。「それにこんな大量にある黄金の賄賂っておまえはいったい何を?……不正のもみ消しか?……それとも出世が目的か?……」
   ますます混乱しどんどん口数が多くなる文台に公偉はゆっくりと口を開く。
「この黄金は別に私のために使うわけではない」
   公偉のびしゃりとした一言で文台は口より耳に神経を使うことにした。文台は公偉に話を続けるよう、相づちをうつ。公偉はそれを確かめると再び口を開く。
「今、うちの郡が反乱軍に大敗したという報告が州の役所から京師に向けて送られている」公偉は文台の問いに答える前に状況の説明をしようとした。「私が顔見知りの州吏(やくにん)からひそかに訊いたことによると、どうやらその報告の書は太守どの一人に敗戦の責任があるといった内容らしい……」
   公偉の声がまだ響いているのに、文台はすぐに口を出そうとしていた。早く、賄賂の目的を知りたいからだ。
「え、なんで?   太守だけの責任で正しいんだろ?」
   文台は邪気のない様子で訊いた。公偉の顔が即座にこわばる。
「兵卒だけじゃなく会稽郡の人みんな、君のように『太守だけが悪い』って言うだろうね」公偉は自嘲気味の笑みを浮かべながら説明し始めた。文台の目にその表情が痛々しくうつっている。「会稽郡の重役しか知らないと思うけど、実際は、元から会稽郡にいた郡吏(やくにん)たちが自分たちの責任逃れのために尹太守どのすべてに責任をなすりつけたんだ」
   公偉が話したことにより、文台の邪気のない顔が驚きにより歪んだ。しばしの間、文台は自分の無知さ加減を恥じる。そしてすぐに文台はこのことを整理して考えようと目線を下げる。そのため、二人の間にはしばらくの沈黙が続く。
   目を伏せていた文台は急に公偉の方を向く。
「待て。今はその黄金……つまり賄賂を何に使うかのかって話をしていたんだろ?   なぜ、太守なんかの話がでてくるんだ?」文台は突如としてわいた疑問をそのまま口走った。そして、彼自身が発した言葉を耳にし軽く考える。「…まさか!」
「そのとおりだ」公偉は文台が口にした疑問を自力で答えを見つけたと判断した。それでもなお、決定的にするため公偉は言葉にしようとする。「この黄金は尹太守どのへの刑が少しでも軽くなるため……少なくとも死刑をまぬがれるために使う」
   公偉は決然とした表情を文台に見せていた。文台が驚きと少しの呆れのため、次の言葉を出せないでいた。気まずい静寂が訪れる。ようやく文台は硬直した顔を柔らかくし、意を決してようやく口を開く。
「でも、もう手遅れじゃないのか?   大敗したことは京師の役所に知られ、すぐに尹太守は罰せられるんじゃないのか?」
「実は今まで泊まった邑で聞き込みをしていたんだが、会稽郡が反乱軍に大敗したという報告の書は、我ら二人より一日分、早く京師に向かっているらしい」公偉は待ちかまえていたとばかりに即答とした。心と体の両方で傷を負っている公偉に少し覇気がもどったかのようだ。「京師までの道中で追いつくことは多分、無理だけど、まだ望みはある。報告の書は直接、尹太守どのに命令するお偉いさんに読まれる訳じゃなく、一旦、報告をまとめる章吏(やくにん)に渡される……その章吏に賄賂を渡して、報告の書を正しいのに取り替えればいいんだ」
   文台が長い間、持っていた数々の疑問は、公偉の説明で一気にはらされた。文台は深い理解のため、わずかに晴れやかな顔を見せていた。しかし、その様子も束の間に彼は新たな危惧を抱く。
「それはいいとして……おまえ、その足でどうやって京師まで行くんだ?」
   文台は、少し元気が戻った公偉の両足が依然、怪我を負っているのに変わりがないことに気が向いていた。そんな傷ついた体とは裏腹に公偉は元気な顔で応じる。
「今まで言わなかったのは悪かったが……君の任務は、ここから黄金を京師まで届け、報告の書を取り替えることだ」
   同じく、文台が長く抱いていた疑問が公偉によってあっけなく明かされた。だが、今度は少しも晴れやかな表情をみせず、文台は厳しい表情を見せている。
「俺がここから黄金を運ぶのか?」文台は眉をひそめたまま尋ねた。文台は公偉が相づちを打つのを認めてからさらに言葉を投げかける。「おまえ、それじゃ、怪我して落馬することをわかってて、俺を雇ったのか?」
「こんな重さの黄金を足に乗せて隠していたから、いつか馬から落ちるってことは判っていた」公偉は穏やかに口にした。その顔には悲壮感が漂っている。「でも出発前はせいぜい江水までしか保たないと思っていた……まさか、こんな所まで来れるとは思わなかったがな。だから、私の意志を引き継いで秘密のまま任務を遂行してくれる人が必要だったんだ」
   公偉は威厳をもって文台を見据えた。文台は思わず視線をはずし横を向く。
「俺がおまえの思い通りになるとは限らないぞ」文台は空々しさを含む声で語り始めた。彼の目は空を見つめたままである。「第一、俺が賄賂なんて悪事に手を貸すと思うか?   俺がここで職務放棄したらどうする?」
   文台の最後の言葉には含みのある笑みと共に少し皮肉が込められていた。まるで公偉をもてあそんでいるようだ。対する公偉はじっと文台に鋭い視線を送っている。
「君には、この任務を捨てることなんてできない」
   公偉は一語一語はっきりと話した。文台は再び公偉の方を向く。その目つきに侮蔑が含まれている。
「俺がこの任務を捨てることができないって?」文台は笑い声に似たあきれた声を出した。彼は公偉を見下ろし鼻で一笑する。「まさか、また出発のときみたいに俺が職務放棄したことを持ち出して脅すのか?   言っとくけど、それは無駄だぞ。俺は今から俺の好きなように行動するからな!」
   そう言い放つと、文台は勢い良く立ち上がった。そして彼は自分が乗っていた馬の方へ振り向き歩を進める。公偉は落ち着いた様子で口を開く。
「それは違う」公偉は決然と語り始めた。その声で文台は歩の速さをゆるめない。公偉は続ける。「傷ついて、歩くことさえままならない私をみて、君は見捨てることはできないはずだ」
   文台の歩調は変わらない。公偉はさらに話し続ける。
「君が遠くから我が郡の兵卒になったのは、反乱軍に荒らされた我が郡を見るに見かねてのことだと聞いている。それも自分のことをかえりみずにだ。そんな義侠心あふれる男が今の私を置いていくことはできないと信じている」
   公偉が話し終える前に、文台は公偉の方を振り返っていた。彼の表情には依然、憤りが込められている。彼は充分、間をおき、腹に力を入れる。
「俺はなんと言われようとも自分の好きに動く」文台は力強く大声で公偉に伝えた。さらに続ける。「最後に一つ、おまえに訊く。誰かの陰謀が絡んでるらしいが、なぜ、尹太守のようなやつにそこまで懸命になって助けようとするんだ?」
   気負う文台の質問を受けて、公偉はこわばるどころか笑顔を向けた。公偉は間をあけず話し出す。
「私は根っからの郡吏(やくにん)だ。私なりに何年もがんばった。だが誰も私のことなんて認めてくれなかった。ところが尹太守どのだけは違った。私を今の役職、主簿に抜擢してくれたんだ……」
   公偉が話し終える前に、文台は決然とした表情のまま、公偉が座る元へ歩み始めた。公偉はその様子をみて言葉を詰まらせる。やがて、文台は公偉の前で立ち止まる。
「取り替える報告の書と黄金を渡しな」
   文台は公偉を見据えて右手を差し出した。公偉は呆然としていたが、何とか声を出す。
「どうするつもりだ?」
   公偉の言葉に文台は笑みを見せた。そして、すぐに文台は真顔に戻す。
「俺はやりたいようにやる」文台は公偉の目をみて言い放った。「おまえの持っている黄金を京師の章吏(やくにん)に渡し、そいつの持っている報告の書を取り替え、尹太守を助けてやる」
   文台の言葉で、公偉の疲れ果てた顔に喜びの色が広がった。
「私の任務を引き継いでくれるのか?   でも、なぜ急に心変わりしたんだ?」
   公偉は率直に質問した。文台はその場でかがむ。そして文台は笑顔で答える。
「尹太守ってやつがおまえを認め、そしてそんなおまえは俺を認めた……理由はそれだけで充分だ」文台は決然と言い放った。彼の声と顔に迷いの色はない。「俺は人から今まで乗馬と腕っぷしでしか認められなかったけど、まさか俺の心を認めてくれるとはな」
   文台ははにかみながら述べた。公偉はやさしい笑顔を浮かべている。やがて、公偉は懐から包みを取り出し、文台の目の前に差し出す。
「ここには報告の書以外にも主簿の服と印綬、それに謁と呼ばれる身分を表す札が入っている」公偉はそう言いながら文台が差し出した両手にその包みを置いた。公偉はその包みを指さし話を続ける。「これで私になりすまし、京師の中にある公車って呼ばれる役所まで行ってあたかも報告の書を持ってきたように振る舞えば自然と報告の書をまとめる章吏のところに行ける…」
「その章吏に黄金を渡して話をすればいいんだな」文台は公偉の言葉を引き継いだ。言葉以外にも仕草で公偉を安心させようとしている。「その前におまえのその怪我のことだ。とにかく近くの邑で手当てしないと……よし、俺がそこまで付き添ってやるよ」
「いや、大丈夫だ」今度は公偉が文台を安心させる番だった。公偉は目一杯の笑顔を向けている。「何とか自力でそこの中牟の邑まで歩いて行ける……それより、任務の方を優先させてくれ」
   それを聞き文台は力強くうなずいた。黄金を手に持ち、すぐに立ち上がり馬の方へ歩を進めた。
   文台は馬に乗り、やがてその場を後にした。