「京師まで三千八百里」   六、淮水
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   孫文台と朱公偉は馬を駆けさせていた。
   数日前、馬に乗る二人は江水だけではなく、その北で東西に横たわる淮水も越えて、北西へ北西へと向かっていた。そして今は馬首を西へ向け京師まで駆けていた。
   ここ数日は互いに会話らしい会話をしていない。それが慢性的な旅の疲れによるものなのか、それとも江水を渡る前の二人の奇妙な衝突によるものなのか、文台は判別がつかないでいる。二人の間がそのような険悪な雰囲気だったため、文台は公偉に自分に課せられた任務を訊き出せないでいた。もう京師まで五〇〇里をきっているという距離なのに。
   行く先に向けられていた文台の目に邑を囲む城壁が小さくうつった。文台が聞いたところによれば中牟という邑(まち)だ。まだ、日が空の真ん中より東寄りにあるのでそのままとおりすぎるのだろう、と公偉の後をついて行くだけの文台は思っていた。やがて、中牟という邑を取り囲む城壁が文台の瞳に大きくうつるところまで到達する。
   そのとき、文台の視界に動くものがうつった。彼は風景を見つめていたので何が動いたのか咄嗟に判断できずにいる。
「あっ」
   文台は思わず声をあげ、手綱を素早く動かし馬首を左に動かした。彼が進んでいたはずの先には、公偉の後頭部があった。
   公偉は、馬の左の宙に頭から落ちている。それにともない公偉の胴体は馬から空中へ放り出される。瞬きする間もなく公偉が地面に激突するのは判りきったことだったが、文台はどうすることもできないでいる。
   一瞬だがとても長く感じる公偉の落馬を、文台はむなしく眺める。
   鈍い音とともに公偉は肩と背中から地面にたたき落ちる。
   それぞれの意志とは関係なく勢いで、公偉が乗っていた馬と文台を乗せた馬はその場から数十歩分、離れる。
   文台はすぐに馬から飛び降り、地面に倒れる公偉の元へ走り寄る。
「大丈夫か!」
   文台は走りながら叫んだ。それに公偉は首だけをなんとか動かし応じる。しかし、まったく公偉は立てないでいる。
   文台がようやく公偉の元へ到着した。彼は公偉の顔に視線を移す。公偉は自嘲気味に力無い笑顔を向けていた。
「大丈夫だ……こうなることは判っていたよ……」
   地面に大の字になる公偉はそのままの顔で弱々しい声をだした。文台はその痛々しい公偉の元にしゃがみ込む。
「とにかく、そこの邑まで行って、落ちたときの怪我をなおすんだ」
   文台は公偉の言うことをよく理解しないまま、公偉に治療を勧めた。公偉はなおも口を開く。
「いや、本当に判っていたことだ」
   公偉の口調は突如、痛々しくも力強くなった。公偉は首を立て眼差しを自身の体の下の方へ向ける。文台もそれにつられ公偉の体を見る。
   文台は公偉の着る長い衣服が一部、まばらに赤く染まっているのに気付いた。すぐに文台は疑念を抱く。血でまばらに赤く染まっている部分は公偉の両太股の部分であり、あきらかに馬から落ちたときの傷とは無関係な部分だったからだ。再び文台は公偉の顔に視線を移す。
「これはどういうことだ?   なんで太股のところに血がついているんだ?」
   文台は率直に質問した。公偉は眉をひそめる。
「太股にかかっている上着をめくってみな」
   公偉は弱々しい声ながらもすぐに答えた。文台は公偉の傷にふれないよう慎重に血で染まった部分をめくる。そこには公偉の両太股をそれぞれ覆うぐらいの2つの布袋が紐で足にしばりつけてあった。その布袋も公偉の血で染まっている。文台は自身が抱く疑問をはらすために自然と公偉の体をしばりつける紐をほどき、その布袋をつかみあげようとする。
「うぐっ」
   そう文台が声を漏らしたのは一瞬、肩が抜けそうになるくらいのずしりとした重みを感じたからだ。文台はその布袋を両手で持ち直し改めて持ち上げ、地面におろす。布袋のあった服の箇所は血でどす黒くなっていた。もう片方の袋もおなじように地面におろす。文台にとって両方とも大きさの割には異常な重さだった。
   文台はおもむろに布袋を開け中を確認する。ちょうど真上からの日の光が布の開け口から中へ差し込んでいた。
   布の中の暗闇から日差しを受けた輝くものが見える。文台は驚きで目を大きく見開く。
「黄金だ…」文台は思わず驚きの声をあげた。文台は布袋の口をさらに大きく開く。「俺はこんなたくさんの黄金を見たのは初めてだけど……重さで五〇斤はあるんじゃないか……どおりでこんなに重いわけだ…」
「両方の袋を合わせて一五〇斤はある…」と公偉はつぶやくような声で答えた。
   文台はそれが黄金だと知っても今の状況がまったく理解できないでいた。なぜ公偉は落馬したのか。なぜ公偉は太股に怪我を負っているのか。なぜ公偉は太股に黄金を抱いていたのか。
   ふと、文台は心の中で小さなひらめきを感じた。しかし、それはまとまったものではなくいくつもの断片的なものだった。文台は判ることだけ口に出そうとする。
「おい、まさか、おまえ……この黄金を出発の時からずっと持っていたのか?」
   文台のその問いに、公偉は唯一、動かせる首を縦にふり応じた。文台は驚きを口にする。
「そんな長い間、そんな重いものを太股の上に置いて、よく揺れる、馬の上にいたら、太股を怪我して落馬するのは当たり前じゃないか!」
   文台は半ばあきれたような声を出した。公偉は痛々しい苦笑いを浮かべていた。
   文台は公偉へのやりとりで話の糸口が見えてきていた。その反面、彼は早く公偉を近くにある邑まで運び治療を受けさせてやりたかった。しかし、彼は黄金のことを訊かずにはいられない状況にいる。
「俺の勘ぐり過ぎかもしれないけど……」文台は横たわる公偉へ遠慮がちに声をかけた。「おまえ、そんな長い上着を着ていたのはこの黄金を他人の目から隠すためだったのか?」
   公偉はその文台の質問に答える前に、みずからの上体を起こそうとして、手で地面を押していた。文台は自然と公偉の肩に片腕を回し手助けをする。公偉の上体は非常にゆっくりだが確実に起きあがる。そのわずかばかりの勢いで公偉の体全体が揺れ、傷に響いたのか公偉は苦痛に顔を歪ます。文台は心配そうな表情を向けるが、公偉はそれに弱々しい笑顔で応対する。
「あんな長い上着を着ていたのは、あと君からも黄金を隠すためだ…」
   上体を起こして少し落ち着いたものの、公偉の声にはあいかわらず生気がなかった。
「なんで俺も?」文台は次から次へと心の中でわく疑問の一つをなんとか口に出した。彼はつかみかけていた全容を逃すまいと懸命だ。「それに、出発のときに教えてくれていたら運ぶのを手伝ってやったのに」
「この黄金は君に知られるわけにはいかなかった…」
   公偉はわずかに厳しい口調で応じた。その厳しさは明らかに公偉自身に向けられているようだ。文台は理解に苦しむ表情を向ける。公偉は再び口を開く。
「私がこの黄金を何に使うかを知ったら、君はこの任務に関わることすべてを拒否していただろう……」公偉は遠くを見つめながらつぶやくように話した。その後、急に振り返り文台の目を見つめる。「この黄金は賄賂(わいろ)だ。私はこの黄金で不正をしようとしている」
   文台は真っ先に自分の耳を疑った。しかし、文台の耳の中にまだ残っている、公偉のはっきりした言葉がそれを否定している。文台の心の中は再び、判らないことばかりになっている。