「京師まで三千八百里」   八、河水
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<<七、中牟


   孫文台は馬を駆けさせていた。
   やがて文台の目に向こう岸がかすむほど大きな川が映る。
「河水だ」
   文台は誰に言うでもなくつぶやいた。浙江、江水、淮水と大きな川を見てきた彼はすぐに判別できた。京師の北で河水が西から東へと流れていると彼は聞いていたが、まさか近くで見られるとは思ってもいなかった。
   文台は先を急がなければいけないと思いながらも、河水のほとりで馬をとめる。彼は河水を眺める。
「ほんと、世の中、とてつもなく広い。まだこんな大きい川があるんだからな」
   文台は独り言をつぶやいた。彼の目には河水の悠久の流れがうつっている。彼は流れている水の色が黄色であることに気付く。彼はその色がこの川の本来の色なのか、それとも上流で大雨が降ったための濁流なのか判別がつかないでいる。
「まったく、一目、見ただけではわからないことばかりだ」
   文台は自分で発した言葉でいろんなことに思いを寄せていた。会稽郡の重役たち、反乱軍に集う者たち、今の故郷の状況、それに自分自身、どれもわからないことばかりだ、と彼は思いを巡らす。
「ま、俺が今からやることだけわかれば充分かもな」
   文台はそうつぶやくと手綱を引き、馬首を京師の方、西へ向かせ、その場から立ち去った。


   孫文台は馬を駆けさせていた。
   馬首は東へと向いている。
   行く先に向けていた文台の目に邑を囲む城壁が小さくうつった。文台の記憶によれば中牟の邑だ。それは文台の目的地だ。やがて、中牟の邑を取り囲む城壁が文台の瞳に大きくうつるところまで到達する。
   城門は開かれており、そこに見張りの者が立っていた。文台はその者に聞き出していた。数日前に南方から来た郡吏(やくにん)がどこで治療を受けているか知らないか、と。その者から丁寧に説明を受けた文台は馬を中牟の邑の中へと駆けさせた。
   やがて文台はある建物に到着した。彼は馬から飛び降り、はやる気持ちを抑えきれない様子でその建物の中へと入っていく。城門で聞き出したのと同じように、その建物の人から目的の部屋の場所を聞き出す。彼はその部屋の場所を知るとすぐに歩を進める。そして、文台は部屋の入り口で立ち止まる。
「朱公偉はいるか?」
   文台はよく通る声で呼びかけた。しばらく沈黙が続く。
「その声は孫文台か?」
   やがて部屋の奥から馴染みのある声を文台は耳にする。文台は安堵のため息をつく。
「そうだ、公偉」
「やはり、文台か、その声は。さぁ、入って来い」
   公偉の合図で、文台はその部屋に足を踏み入れた。文台の目に牀に横たわる公偉が映る。
「まだ足の具合は悪いのか?」
   文台は間を置かず訊いた。公偉は安心させるため文台に笑顔を向け、上体を起こす。
「いや、大丈夫だ。歩いたらまだ痛むけどな。だから、あと数日は安静にしないと駄目みたいだ」公偉は陽気に話しかけた。公偉はすっかり元気になったということを文台に見せている。「それより、例の任務はうまくいったのか?」
「ああ、もちろんだ。失敗しておめおめとおまえに顔を見せるわけにはいかないからな」文台は小さな笑い声と合わせて得意げに答えた。それから思い出したかのように懐に手を入れる。「あ、おまえから借りたものだ。返すよ」
   文台は懐から包みを取り出し公偉に差し出した。その包みの中身が服と印綬であることを公偉は知っているので、中身を訊かずにそのまま受け取る。文台は唐突に笑顔を真顔に戻す。
「早速で悪いんだけど…」文台は話を切り出した。その顔は真剣そのものである。「……俺は今すぐ故郷へ帰ろうと思う」
   文台の話を聞いて、公偉の笑顔は凍りついた。そして公偉はあからさまに眉をひそめる。
「どういうことだ?」公偉は率直に疑問を投げかけた。「そりゃ、もう任務が終わったからこれからは君の自由にして良いけど……別に急ぐこともないんだぞ。ここは会稽郡じゃないから私と君が居ても問題ないぞ……」
   文台は公偉の様子を見て、あわてて口を挟む。
「どうか、誤解しないでくれ」文台は困惑した顔を見せた。「俺は別に嫌になったから今すぐ帰るわけじゃない」
「では、なぜ?」
   公偉は依然、怪訝な顔つきを見せていた。
「俺は一人になっていろいろ考えたんだ…」文台はゆっくりと話し始めた。彼は公偉を納得させようと必死だ。「…実は、俺が故郷を離れて兵卒になったのは、隣の郡の反乱を見るに見かねたという理由だけじゃない……言いにくいことだけど、実は自分に嫌気がさして逃げ出したかったって理由もあったんだ…」
   文台は話しながら知らず知らずのうちに公偉の目から視線を下に外していた。文台はあわてて公偉の方を向く。文台の眼差しの先には公偉の呆然とした顔があった。文台は気にせず話を続ける。
「だけど、ここ数日で考え直したんだ……故郷で一からやり直すぞって。そう思っていたら一刻も早く故郷へ帰りたくなったんだ……別に少しぐらい早く帰っても何か変わることはないけど、いてもたってもいられないっていうか…」
   文台の話の途中、公偉は笑顔を見せ大きくうなずいた。文台は話をとめる。その様子を見計らって公偉は口をあける。
「なるほど、そういうことか」公偉は明るい声を出した。晴れやかな顔で文台を安心させる。「それなら今日でお別れだな……そうそう、会稽郡のことなら、心配ないぞ。どれだけかかるかわからないが、必ず尹太守どのの元で重役たちを一つにしてみせる。そうなれば、自然と我が郡は援軍と協力して見事、反乱軍を討ち破るだろう」
   怪我に倒れている男とは思えないほど公偉は覇気のある声を出した。文台もようやく明るい顔を見せ力強くうなづく。
「ありがとう」
   文台は心からそう述べた。彼は未練を残したくなかったので、不自然に見えるぐらい急に後を振り返りその部屋から退出しようとする。
「待て」公偉はあわてて呼び止めた。公偉は枕元から急いで包みを一つ出す。「これは君が職務放棄の罰を免れるための書簡だ。君の故郷の県府(やくしょ)で見せればいい」
   公偉の呼びかけに振り向いた文台は一歩前にでて公偉からの書簡を素直に受け取った。公偉は文台が書簡を受け取るために差し出した手を握る。
「これで本当のお別れだな」公偉は悲しい顔を向けていた。しかし、その顔には迷いはまったく見られない。「また会えるといいんだが…」
   その言葉を受け、文台は片手を大きく広げ、明るい顔を向けた。
「俺は故郷に帰ってから、何年かかるかわからないけど人の上に立つ人間になりたい。そして、今の会稽郡みたいに仲間内で険悪な雰囲気には絶対にしない。皆が一丸となって事に当たることのできる雰囲気にしたい……」文台は自分の理想を力強く語った。文台は公偉の目を見据える。「……次に会うとき……俺が会稽郡に帰ってくるとき、俺は必ずそんな男になっておまえの前に現れる」
   そう語り終えると、文台は別れの挨拶を言う代わりに片手を掲げた。公偉もそれに合わせ片手を掲げ別れの挨拶の代わりとした。
   今度こそ文台は未練が残らないように素早く部屋の出口へ振り向き、大股に歩いていった。


「伯明よ、まぁ乗馬なんてのは二の次だ。これからたいへんになるぞ。なんせただ隊長になるだけじゃなくて俺の後釜だからなぁ」
   長い廊下を歩く青年が二人。先ほどまで声を出して笑っていた片方が、もう片方に語りかけていた。
「孫司馬どのの方こそ、これから忙しくなりますよ。郡の兵全体を統率しないといけないんですから」
   もう片方の青年は片方に返答した。
「ははは、なーに、援軍のやつらより、ましな軍にしてやるさ」
   片方の青年は笑みをうかべた。
   その青年は急に歩みをとめる。その視線は廊下の脇へと向いていた。
「どうしたのですか?」
   もう片方の青年は、立ち止まった片方を不思議に思い、そう問いかけた。
「いや何、傷薬と血をぬぐう布がほしくてな……」
   片方の青年はぼそりと口に出し、一番手前にある部屋へと歩を進めた。
「待ってください、孫司馬どの。我が隊どころか我が軍には誰も怪我人はいないと思いますが」
   もう片方の言葉で片方の青年の歩みは変わらなかった。
   部屋に足を踏み入れた青年の目には机にうつむいて木簡を読む男が映る。そして青年の顔はほころぶ。が、すぐに青年は無理やり顔を緊張させ真顔にする。
「すいませーん。怪我人が一人いるんで、傷薬と布をくれませんか?」
   青年は目の前の男に声をかけた。男はその声に少し体を震わせたが手を休めようとはしないでいる。
「ここは主簿の部屋であって医者の部屋ではない。そんなもんはないよ」
   男はぶしつけに答えた。しばらくすると男はゆっくりと顔をあげ青年の方へ視線をうつした。そのとき、青年は男と目が合う。青年はみずからの顔を無表情にしようと努めていたが、その瞬間、顔を照れと喜びの入り交じった笑顔へと崩した。それに応えるようにして男もやさしい笑顔を向けていた。
「おっとそうだ。傷薬なんてないが、一つ、おまえに渡す言葉があったなぁ」
   男はそう言って大げさに両手をひろげた。青年は男からの言葉を待っていた。
「おかえり、孫文台!」
   男のその言葉で文台と呼ばれた青年はこれ以上ない笑みで喜びをみせていた。



(完)