「京師まで三千八百里」   五、江水
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<<四、浙江


   孫文台と朱公偉はいつも通り馬を駆けさせていた。文台は、今朝、秣陵(ばつりょう)という名の邑で耳にした大体の距離を思い浮かべる。それを考えるともうかれこれ一六〇〇里は駆けているはずだ。もう七日も駆けているのにまだ京師まで半分の距離も行ってない、と文台はすこし頭をかかえる。
   文台の少し先を駆ける公偉は黙々と馬を操っていた。それにあわせて文台も馬で黙々と後を追っていた。文台はこれまでのことを心にえがいている。馬上の公偉は寡黙であり続けるが、食事などのときには気さくに文台と話していた。そのときの話題は、文台の故郷での話、公偉の若き日の話、会稽郡の話など多岐にわたったが、今回の任務のことにふれることはなかった。
   そんな思いを文台が抱いていたとき、大きな川が彼らの行く手を阻んでいることに彼は気付く。その川は彼の故郷の川、浙江と同じぐらい、もしかするとそれ以上の川幅を持っているようだ。彼らが駆ける道がその川でとぎれる先にちょうど渡し場があり、彼らはそこまで馬を駆けさせる。そこまで行くと渡し舟が停泊していないことに彼らは気付く。公偉は彼の方へ振り向く。
「舟を待つしかなさそうだな」
   公偉の一言で文台は颯爽と馬から飛び降りた。そんな文台に対し、公偉は膝下まである長い上着が風でぴくりともなびかないほど異常にゆっくりと馬から降りていた。文台はこの様子を公偉が馬から降りるときだけでなく乗るときも何回も見ており、そのたびに公偉が実のところ、乗馬に不慣れではないのかと疑いをかけていた。
   文台は改めて目の前の川を見てその大きさに驚く。彼の口から思わず感嘆の声が出たほどだった。その様子を眺めていた公偉は口を開く。
「なんだ、君は江水を見たことなかったのか」
   公偉は少しからかうような口調で文台に声をかけた。文台は公偉の方を振り返る。
「へぇ、これが江水かよ」文台は驚きで乱れた顔を急いで真顔に戻し、驚いたことを隠すため、声にわざと侮蔑の調子を含ませていた。「世の中には江・河・済・淮の四つの大きな川があるっていうけど、これがその一つの江水だとしたら他の3つも大したことないんだろ?   俺の故郷の浙江とほとんど変わらないし」
   公偉には文台の心の内がわかっていたのか、視線を外し忍び笑いをする。その様子を見て文台はあからさまに不機嫌な顔を見せる。公偉は視線を文台に再び向ける。
「いや、すまない、すまない……」と公偉は笑い顔のままつぶやいた。徐々に真顔に戻しまた口を開く。「そりゃ、一目、見ただけだったら、江水も浙江も似たようなもんだけど、もっと大きな目で見たら、江水が浙江よりも比べものにならないくらい長いことがわかるよ」
   そう公偉に川の説明を受けた文台は、少しむくれた面もちを残しながらも納得し軽くうなづく。それを見て公偉は目を江水の向こう側へと移す。
「世の中、とてつもなく広いよ。一目、見ただけではわからないことばかりだ」
   そう言いながら、公偉は悠久の流れを垣間見せていた江水を眺め物思いにふけている様子だった。そんな公偉を見て文台は話が終わったと思い、自分たちの乗っていた馬二頭を紐で杭につなぐ作業をしていた。そんな折り、ふと文台は浙江での出来事を思い出す。
「そういや一目見て、わかることもあるぞ」文台は唐突に公偉へ話しかけた。公偉はゆっくりと振り返る。それを確認し文台は話を続ける。「ほら、浙江では反乱軍に会ったじゃないか。でもここでは反乱軍みたいなのどころか賊すらもいない。悔しいけど、治安の点で浙江は負けてるぞ」
「そうだな…」公偉は文台の言葉に共感した。「でも、ここ、丹陽郡も三年ぐらい前は山越が反乱をおこしていたから治安が悪かったんだけどな」
   公偉の言葉には、自分の郡、会稽もいずれ反乱が鎮まり治安が良くなるという意味が込められていた。その隠された意味に文台は気付かず話をつなぐ。
「俺もその山越ってやつが反乱したってのは知っている。昨日、泊まったところで聞いたよ」文台は興奮した口調でまくし立てた。話題が文台にとって身近なことだったからだ。「その反乱した山越を倒したのが、確か、丹陽郡の太守の陳ってやつだったな……あ、それで思い出したけど、うちの会稽郡での反乱に丹陽郡から援軍を率いてやってきたも陳太守だな。まったく大した太守だよ。自分の郡だけじゃなく他の郡にまで兵を率いて連戦連勝だもんな」
   文台は自分が発した声を聞いてさらに興奮し知らず知らず口調にどんどん熱を込めていた。公偉はそんな文台にあきれる様子を見せないで暖かい眼差しを向けている。文台は熱っぽい自分自身にいつもと違う自分を感じている。
「それに比べうちの郡の太守の尹(いん)ってやつは情けないな。自分の郡で反乱が起きても城の中に閉じこもって一つの邑を守るだけが精一杯じゃないか」
   文台は興奮のあまり、心の奥底にある、普段、決して言わないようなことを口走っていた。そんな自分に文台は少し気付いていたが、その場の勢いに身をまかせ、あまり気にとめようとはしなかった。そして、文台は公偉の表情が凍りついたことも気にとめようとしない。
「それは一概に比べられないんじゃないかな」公偉はすぐに応酬した。その表情は冷静を装っている。「丹陽郡の援軍は邑を守ることより直接、反乱軍を叩くことに専念してるみたいだし……」
「でも、うちの郡の尹太守はひどすぎるぞ」文台の声は公偉との応酬で冷めるどころかどんどん熱くなっていた。文台はいつの間にか彼が日ごろ、嫌悪感を抱いている陰口、それ自体を口に出していた。そんなことにも気付かず、彼は公偉を前に話し続ける。「兵卒じゃないおまえでも知ってると思うけど、反乱軍が城の包囲をといて退却したとき、すぐにうちの太守は反乱軍を攻めに城から出撃しろって全軍に命令したんだ。そのとき、仲間の兵卒たち全員、城の守りで疲れ果てたんだぞ。そんなのですぐに攻めに出るってのは無謀すぎる行為だったんだ」
「…しかし、尹太守どのとしては多分…」公偉はつまりながら話し始めた。口に出すのがやっとだというような小声だ。「…会稽郡での反乱軍の略奪行為を少しでもくい止めようとするあまり城から出撃したのじゃないかな…」
   文台にとって公偉が言葉につまっている状況は単に彼が郡吏(やくにん)である故に戦のことに詳しくないのだろうということでしかなかった。そのため、文台は彼によりわかりやすく言葉を換えて当時の状況を説明しようとする。
「いや、単なる戦知らずどころか、兵卒のことをまったく考えない愚か者だね、尹太守ってのは」文台は吐き捨てるように言い切った。文台はそのとき、あからさまに顔をゆがめる公偉に気付かないでいた。「普通は兵卒の様子をじかに見てから判断するはずだ……俺は尹太守ってやつを現場で一度も見たことない……それでまぁ、攻めに出て勝てば俺だって文句は言わないんだけど、その後、返り討ちにあってまた城に引きこもったんだぞ。しかも、俺ら五人は退却のとき、最後尾にいたんだ……ほんと、死ぬかと思った…そのとき、その場にいた全員、思ったね、『なんてひどい太守だ』ってね」
   興奮しきった文台は、心の底にためていた言葉を吐き出して、ある種の爽快感を感じていた。一方、公偉はそんな文台に厳しく冷たい眼差しを向けていた。ちょうど、文台が公偉の眼差しに気付いたとき、公偉は口を開く。
「おまえに太守どのの何がわかる!」
   公偉は不快感あらわに言い放った。
   文台の表情はその一瞬で凍りつく。公偉は文台の熱気に冷や水をかけたようだ。
   文台は何かの聞き間違いかと希望を込めて自らの耳を疑い、公偉に聞き直そうとする。しかし、公偉が発する次の言葉の方がそれより早くくる。
「尹太守どのは会稽郡に着任したばかりだというのに、郡内で急にあんな反乱がおこったんだ」公偉は先ほどの力強い一括とは正反対に落ち着いた口調で淀みなく話した。その言葉にある沈着感が、返って文台の気持ちを圧迫している。「太守どのが郡のことや部下のことをあまり把握していないときの反乱だ。しかもその部下たちは兵の出撃を主張する者たちと城に閉じこもるのを主張する者たちとで真っ二つに分かれて互いに相容れない……」
   文台は心への見えない圧迫に耐えられなくなり、口をひらく。
「そんなことは知らない。俺は……俺の兵卒たちは先行きの見えない戦いにうんざりしていた……」
   文台はしどろもどろに公偉の声をさえぎった。文台は公偉の憤りに続く奇妙な落ち着きを理解できないでいた。公偉の悲しみにあふれた目は文台から江水の悠久の流れに向く。
「本当に、世の中、一目、見ただけではわからないことばかりだ……しかも、わからないだけなのに悲劇は簡単に起きてしまう……」
   公偉は静かにつぶやいた。文台は公偉の急激な変化にどうしていいのかわからず、ただ黙って立っていた。そのとき、公偉は急に右手をかかげ、江水の先を指さす。
「渡し舟が来たぞ。馬をのせる用意だ」
   公偉のその言葉通り、江水の向こう側に渡し舟が見えていた。文台には公偉の感情の起伏が理解できないでいた。しかし、それを確かめるのをひとまずあきらめ、馬を舟にのせるため杭にくくりつけている馬の手綱をほどく。
   公偉は何ごともなかったかのような眼差しで文台のその作業を眺めていた。