「京師まで三千八百里」   四、浙江
173/02-
<<目次
<<小説本編の入り口へ戻る
<<三、山陰

   孫文台と朱公偉は昨日と同じく馬を駆けさせていた。二人は出発地点の山陰で乗った馬を昨晩、泊まった永興という邑(まち)で乗り換えたので、今は違う馬に乗っている。そして馬首を北西へと向けている。
   朝早くに永興を出発してから、文台の目に、道の地面以外に視界をさえぎる木々とその遠くにそびえる武林山がえんえんと映っていた。まだ日は低い位置にある。文台は、昨日と同じ、この単調な光景が続くのかとあきらめていた。そんなときに道の向こうから光るものが目に入る。それは向こう岸が見えないほどの大きな川であった。文台ははたと思い出す、そうだ、京師にいくには、はじめに浙江を越えなくてはいけないのだ、ということを。
   文台の乗る馬と公偉の乗る馬はどんどん川岸へと近づいていた。やがて彼は川岸の前に人影が六つあることに気付く。彼はみずからの体が警戒でぴくりと反応するのを感じる。彼は隣の公偉をちらりと見るが一向に馬をとめる気配がない。
   やがて人影の容姿がはっきりとしてくる。服に赤と黄を基調とした布の印をそれぞれの左肩に備えている。文台にとって忘れようのない服装。何よりもその男たちは全員、何かしらの武器を携えていた。間違いなくその男たちは昨日まで矛を交えていた反乱軍の者たちであった。文台が公偉に注意をうながす前に馬は反乱軍の兵卒たちの前に来ていた。
「止まれ!」
   真ん中に立つ男が公偉と文台に声をかけた。二頭の馬はその場に立ち止まる。馬上の公偉はその男の方を見下ろしたものの、まったくの無表情をしていた。一方、文台はさも声をかけられて初めてその男に気付いたというような顔で男の方を向いた。
「馬から降りろ!」
   同じく真ん中の男は続けて文台たちに命令した。文台は善良な一民間人を装ってすぐに馬から降り一歩前にでる。その彼の元へ声をかけた男が右手に持つ矛を見せつけながらゆっくりと近づく。しばらく男は値踏みするように文台の姿を上から下へと眺める。
「馬に乗ってるなんて、よそ者か?」
   文台に近づく男は馬を一瞥し、いぶかしげな声をあげた。文台はその男が疑いを持つのに納得した。大小さまざまな川が多いこの地域での主な交通手段・輸送手段はもっぱら舟であり、馬は滅多に見かけないからだ。文台と公偉のことをよそ者と勘違いするのも無理はない。
   男はちらりと文台の右を見る。公偉のいる方向だ。文台も男につられて公偉の方を向く。文台は驚愕の表情を浮かべる。彼の目にうつったのは、反乱軍を前にして緊張状態にあるにもかかわらず、依然、馬の上にいる公偉の姿だった。それどころか公偉は馬上で身動き一つとろうとしないでいた。驚いたのは文台だけではなかったらしく、目の前の男はすぐさま行動に出る。
「そこのやつ!   まだ馬に乗ってるのか!」
   男は怒りに身を震わせた体をそのままに、怒鳴り散らした。文台の心の中で緊張が走る。文台には反乱軍の男が虫を追っ払うかのように簡単に公偉を傷付けるということはわかりきったことであった。そんな彼の心中とは無関係に、男は馬上の公偉をにらみ、今にも行動に移ろうとしている。それなのに公偉は相変わらず馬上で平然としている。
「会稽郡の礼儀を教えてやる」
   男は低くすごみのある声で公偉に向けてうなった。そして、大股に公偉の元へ歩く。文台は矛を握る男の両手に力が込められていることを見逃さなかった。
   公偉の命が危ない、と文台がみずからの心の声に気付いていたころには、彼の体はすでに始めの動作を終えたあとだった。彼の両手には鉄刀が握りしめられていて、足下には公偉を亡き者にしようとした男が脇腹を押さえて倒れていた。
   次の動作は文台の意識下にあった。こうなった以上、残りの反乱軍五人を倒す、と彼は明確な意志を持つ。そうなった彼の動作は何かに取り憑かれたように速かった。多勢に無勢と反乱軍五人が五人とも油断していたとはいえ、文台は矛を持つ一人一人の懐へ順々に飛び込んでいき、五人すべてを順に一撃で地面に伏せさせた。
   そんな神懸かりな速さと激しさが嘘だったように、文台はゆっくりと鉄刀を鞘に納めた。彼にとってその動作はあっけない戦いの終わりを表していた。
   文台は少し得意げな顔で公偉の方へ振り返る。そして彼は公偉の元へ歩く。ところが未だに馬上にいる公偉は、そんな彼を気にとめることなく、視線をあげ虚空を見つめていた。
「おい!」
   文台はいらだったかけ声で公偉の注意をひいた。公偉は少し身を震わせすぐに辺りを馬上から見回す。そして文台の方に顔を向ける。
「やるな……一七歳で伍長になるだけはある」公偉は深く感心しようやく笑顔を見せた。「それに倒れて気絶したやつ、誰も血を流してないってことは、斬らずに峰打ちで倒したってことだろ?   兵卒じゃない私でもそのすごさがわかるよ。やるねぇ」
   少し不機嫌そうだった文台は、公偉が出す賞賛の声で顔をほころばした。それでも彼は少し苦言めいたことをいうことを忘れていない。
「しかし、こういうことは事前に言って欲しかったな。俺は民間人になりすましていればわざわざ戦わなくてもいいって思ってたから……」文台はほころんだ顔で軽い口調で話し出した。「いくら俺がおまえの護衛をまかされているといっても、急に敵六人も戦わないといけないなんて、正直、驚いたぞ……ま、俺だったらろくに訓練していない反乱軍の兵なんて一人で十人は倒せるんだがな……」
   文台の話に公偉の表情は鈍くなっていく。言葉の意味をくみ取れないでいた。
「君が私の護衛だって?」
   公偉は顔で表現していた疑問をついに口に出した。それに文台は訳知り顔を向ける。
「とぼけなくたっていいって」文台は話を切りだした。文台は馬上の公偉からまじまじと顔を見られていた。「おまえの極秘の任務はまだ予想がつかないけど、とにかく俺はおまえを守るために雇われたってことだろ?」
「いや、君を雇ったのはそういうのじゃないけど」
   公偉は文台の問いにあっさりと答えた。今度は文台の方が言葉の意味をくみ取れないでいる。
「じゃ、俺は何をするために雇われたんだ?   それ以外におれが役に立てるってあるのかよ?」
   文台の疑問はすぐに彼の口から発せられた。公偉はその問いを答えるのを少しためらっている。
「これは極秘任務だから、まだ君に教えるのは早すぎる」
   公偉は文台の問いに答えることをきっぱりと拒んだ。あまりに有無を言わせぬ公偉の言葉に文台は返す言葉を失っていた。文台は何とか気を向け公偉に向ける言葉を探している。公偉の視線の先はすでに文台の方にはなく、彼らの行き先に横たわる浙江と呼ばれる大きな川に向けられている。
「とりあえずこの川をこえないとな」公偉は文台に気をまわさずにそうつぶやいた。ちょうどその一言が文台の機先を制していた。公偉は急に文台の方を振り返る。「とにかく、反乱軍の兵卒たちが目を覚ます前に渡し舟を探そう。道の近くにあるはずだし」
   公偉のかけ声で文台は口に出しかけた言い返す言葉を飲み込んだ。文台は自身の任務を明らかにすることを渋々とあきらめ、さっと馬に乗り川沿いに駆けていった。