「京師まで三千八百里」   三、山陰
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<<二、郡府

   孫文台は朱公偉より先に待ち合わせ場所に来たようだ。彼は郡の馬の手綱を引き、歩いて西の城門まで来ていた。そのまま馬に乗ると職務放棄を起こしたときの嫌な記憶を鮮明に思い出すのではないかと彼は恐れていた。しかし、彼はかなりためらいつつもやがて何とか馬舍から城門まで引いてきた馬にゆっくりと乗る。
   ちょうど文台が馬に乗り終えたときに公偉が城門までやってきた。打ち合わせ通り民間人が着用しそうな服装だがゆったりと大きい上着を羽織っているのが印象的である。「いやー、遅れてすまない。少し野暮用があってな」
「それはそうと、その上着はなんだ?」文台は公偉にからかうような口調で服装のことを訊いた。一方、文台の服装は打ち合わせ通りのちゃんとした民間人らしい地味な服装である。「確かに郡吏(やくにん)にはみえないけどね…」
   公偉は首を下に曲げ、自分の服装を一瞥し、服の胸元を軽く両手でつまみ上げる。「これか?   北の方はここより寒いって聞いたもんだからな、念のためだよ」
「ふーん、そんなもんか……」あまり信じられないといった口調で文台はつぶやいた。彼はそれほど気にとめた様子もなく目下の用に気持ちを切り換える。「あ、急ぎの任務だったっけ?   じゃ、行くか……って、城門をあける者をちゃんと呼んだのか?」
   文台たちが出ようとする城門は、遠くに陣取る敵軍と面する東の城門とは反対側の西の城門だった。それでも、敵軍を警戒して内側から堅く閉じられていた。そのため、文台たちが出る前後にかんぬきの開け閉めをする役目の人物が必要となる。
「あー、ちゃんと呼んだ」公偉は含みの笑みを見せつつ返答した。そして背後をふりかえりながら話す。「それで来るのが遅れたんだからな」
   公偉が向ける視線の延長にはこちらへ向かってくる四人の男がいた。公偉は文台の方を振り向き得意げな微笑みを見せる。はじめ、文台はその男たちがよく見る兵卒の格好をしていることぐらいにしか気が向かなかったが、やがて、彼らが馴染みのある面々であることに気付き笑みを漏らす。彼ら四人は文台と数々の修羅場をくぐってきた仲間であった。
「みんな……」
   文台は馬上から感嘆の声を出した。それがきっかけとなったのか、仲間たちは彼の元へ駆け寄りだす。仲間たちが来る前に彼は素早く馬から降りる。仲間たちはその彼を半円状に囲む。
「文台、水くさいぞ」
   仲間の一人がそう切り出した。それがきっかけで残りの仲間も今まさに話し出そうとしていた。
「そうだぞ。急ぎの任務だと言っても数ヶ月はいなくなるんだろ?」
「おいおい、あまり訊くなよ。これは秘密の任務だぞ」
「まあまあ、文台の晴れ姿なんだから、ここはみんなで盛り上げて見送らないと……」
   文台もその仲間たちもその場の一種独特な喜びと暖かさとから顔を崩していた。見送りの言葉、励ましの言葉、それらのお礼の言葉、会話は続いている。公偉はその様子に暖かな眼差しを向けていた。
「みんな、そろそろいいんじゃないかな」
   仲間の一人が他の仲間へ向けて言った。それによりにぎやかな雰囲気がゆっくりと自然におさまってくる。その場にいた全員が気付いていた、文台がそろそろ出発するときだということを。
「そうだよな、文台も急ぎの任務だしな」
   他の仲間が呼応した。その一言でいよいよ文台が旅立つときだということを宣言されたようだった。
「そうだな……じゃ、行ってくる!」
   文台はさわやかな笑顔で挨拶をし、馬に飛びのった。その声の調子と仕草にはそこにいた誰もが別れの雰囲気を感じなかった。ちょうどいつものように朝、でかけるような自然な雰囲気だ。
   公偉は文台の挨拶に合わせて馬首を城門へと向ける
「京師まで三八〇〇里!   出発だ!」
   公偉は小さい声だが力強い号令を発した。
   その号令で仲間たちは小走りで城門の方へかけより、かんぬきをはずし門を開けた。誰もが見慣れた風景が眼前に広がる。左手奥に湖が見える広い平野だ。公偉と文台は手綱を操り馬を駆けさせ、素早く城門から出てその風景へと飛び込んだ。二人の耳に、背後で城門が閉まる音が入る。二人は振り返ることなく急な速さでひたむきに前進する。このあたりは敵軍が潜んでいる可能性が高いことを二人とも充分、わかっているからだ。
   二人の視界の左側に穏やかで美しい湖がある。その湖が鏡湖と名付けられているのも文台には充分、納得できた。しかしその湖の静けさとは裏腹に文台の心は慌ただしい。彼は常に敵軍がいないかと心を緊張させていた。
   声を出したからといって何か異変が起こるというわけではなかったが、二人は長い間、沈黙を保っていた。それほど、近くに居るかもしれない敵を警戒していたのである。
   左手に湖が見えなくなり、日が真っ正面に来るようになったころ、ようやく安心したのか文台が公偉に口を開く。
「公偉、おまえもいいところ、あるじゃねえか」
   突飛な文台の言葉を公偉は何についてかわからずにいる。「何のことだ?」
「とぼけるなよー、俺の仲間を見送りに呼んだことだよ」文台は公偉に親しみのある眼差しを向けた。彼は緊張がほぐれたのか緩んだ表情を見せている。「仲間たちはたかが数ヶ月の別れと思ってたと思うけど、俺はこの任務のあと、故郷に戻るから、もしかして一生の別れになるかもしれないことを知ってんだぜ。それを思うととても仲間に特殊な任務に行くことを告げられないでいたんだ……」
   文台は馬上で熱のこもった言葉を公偉に投げかけていた。公偉はそんな文台の熱意に唖然としながらも文台の方を向いて静かに相づちをうっていた。それを見て調子づいたのか、文台はさらに熱を込めて話を続ける。
「それでもういいやって思って、黙って城を後にしようとしたんだ。それなのに城門で仲間、それも全員に会ったのは驚いたよ。やりきれない気分になるかと思ったけど、そうでもなかった。なんか、こそばゆいけど、さわやかな気分だったぞ。安心して城を後にできるって感じだ……」
   文台の熱意に対して公偉は冷めた顔をしていた。それに文台は気付き、自分の伝えたいことが空回りしているとさとる。文台はあわてて言い直そうとする。
「いや、俺が言いたいことはだな……」少し興奮した様子を残し文台は言い直した。「おまえが俺の仲間を呼んだことに感謝してるってことだ」
   その言葉の後で、公偉の冷たい顔に暖かさを見せる。
「これから長旅になるし、心残りがあっては充分な働きができないと困るからな」公偉ははにかみながら答えた。悪い気分ではなさそうだ。「あと、急に自分たちの伍長がいなくなると大騒ぎになるとおもったんでちゃんと君の仲間にも知らせたんだ」
   文台には公偉の言うことが本心か照れ隠しによるものなのか推し量ることができないでいたが、文台の感謝の気持ちは変わることがなかった。
「ふーん、そうなのか…」文台はくつろいだ感じで公偉に調子を合わせた。文台は話題を変えようとする。「ところで何の任務なんだ?   京師まで行く任務って」
「これは極秘任務だぞ」公偉は少し厳しい口調を出した。そんな自分の様子に気付いたのか、公偉は少し表情を和らげる。「味方にもしばらく教えるわけにはいかないよ」
   公偉の最後の言葉には、はぐらかすような冗談を含んでいた。それに文台は少し安心したが、何か心に引っかかるものを感じていた。
   二人は西へ西へと馬を駆けさせていた。