「京師まで三千八百里」   二、郡府
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<<一、城郭

   孫文台は馴染みのある建物に足を踏み入れる。彼の眼前には見覚えのある長い廊下が続いていた。前に来たときと同じく、建物の中は外の喧噪が嘘っぽく感じるほどとても静かであった。
   文台はその廊下をそそくさと歩いた。彼の足音は何重にも響きだしている。その音がきっかけとなり文台の記憶がよみがえりつつあった。その記憶通りに文台はあるところで急に歩みをとめる。そして、何のためらいもなく、手前の部屋へと入っていく。
「孫文台です。主簿どのに呼ばれたんですが…」
   文台は部屋に足を踏み入れた直後に大きな声を出した。文台の目には机にうつむいて木簡を読む男が映る。文台は少し顔をしかめる。この見覚えのある男が主簿ではないことを文台は念じていた。
   やがて、男はゆっくりと顔をあげ青年の方へ視線をうつす。
「君が孫文台か……あ、私が主簿の朱公偉だ」と男は名乗り膝上の綬を手に取り文台に見せた。その綬は黄色の絹であり朱公偉と名乗る男が主簿であることを示していた。朱公偉と名の男は文台の顔をまじまじと見つめると少し顔をゆがめる。「なんだ、孫文台ってさっきの小僧じゃないか……」
   文台の願いむなしく、目の前の朱公偉は文台を呼び寄せた主簿本人であった。そして、公偉の言葉で文台は再び腹の煮え返る思いを感じていた。文台は怒鳴りたくなる気持ちを抑え、公偉に対して無言の抵抗をする。
   そんな文台の意を介さず、公偉は手元の木簡を文台に見せ、一方的に話を続ける。「いや、なにね、他の郡からこの捜索願いが届いたんだ……孫文台って県吏(やくにん)が任務中、行方不明になったが、そちらの郡にいないか?   てね」
   文台は隠しようのない驚きの表情を見せていた。それは文台にとって触れて欲しくない話であったからである。彼は一瞬、ごまかしの嘘をつこうと思ったが、すぐにそれが無駄であることをさとった。そして同時に彼は成り行きに身を任せる覚悟をする。彼から応答がないのを見て公偉は口を開く。
「この書によると、その孫文台って男は何でも伝馬の任務を行っているときに行方不明になったそうなんだ……ま、目の前にその男がいるってことは事故かなんかで行方不明になったんじゃなく職務放棄をしたってことだな。職務放棄っていえばかなりの罪に値するはずだな」公偉は話しながらいたずらっぽい笑みを浮かべていた。「私は、この書にある文台って男が今は我が郡の兵卒になって活躍しているって知ったとき、その文台って男は自分の仕事を捨てて兵卒に志願するほどだから、よっぽど戦好きの豪傑だろうなと思ったよ」
   机の前にゆったりと座る公偉とうなだれ立ちすくむ文台。文台は一言も発することができず、座る公偉よりさらに低いところに視線を移していた。
   その様子を見て公偉はなおも話し続ける。「ところが今、目の前にいる文台って男はただの小僧でおまけに骨なしときてる……まったくの拍子抜けだよ」
   文台は公偉から受けた小僧扱いに腹を立てたのか、突如として面をあげ公偉をにらみつける。「俺は小僧でも骨なしなんかでもない!   職務放棄したのは、となりの郡が反乱軍に苦しんでいると聞いて、いてもたってもいられなかったからだ。こんな俺でも何かの役に立つんじゃないかと思って兵卒に志願したんだぞ!」
   公偉は文台の鋭い視線を屈託のない笑顔でかわす。「そうそう、その意気だ。私が求めている人物はそんな骨のある男だ」
   そんな公偉の突飛な言動に、文台は憤りを忘れ呆気にとられた顔を見せる。「何のことだ?」
「実は今から極秘の任務があるんだ。それでその任務に同行できる意志の強い部下を探している」公偉は文台にはっきりとした口調で語りかけた。文台はまだ何ごとかつかみかねている。「つまり、文台、君に、私の任務に同行してもらいたい」
「つまり、俺がその意志が強い男ってことか?」文台は少し照れながらもどうにか公偉の言わんとすることをつかもうとしていた。「ん、なんだ……ま、とりあえずその極秘の任務っていったい何をするんだ?」
「具体的にはまだ言えないが……とにかく今からすぐに、私と一緒に京師(みやこ)まで行ってもらいたい」公偉は待ちかまえていたかのように淀みなく即座に答えた。
「は?   京師ってあの京師か?   ここからかなり遠いぞ、一ヶ月以上はかかるはずだ」文台は任務の意図をはかりかねていたが、その重さを感じ取りうろたえた声を出した。「いったい何の任務だ?」
「何の任務かは京師までの道中で話す。それに私たちは馬を使い、急いで京師に向かうので一ヶ月以内で行けるはずだ」
「一ヶ月以内でも以上でも関係ないね」文台は少しうわずった声で早口に話した。「俺を選んでくれたことは嬉しいけど、俺には兵卒としての責務があるんだ。そんな長い間、留守にするわけにはいかない」
「もっと良く考えてから返事した方が良いぞ」公偉は含みのある笑みを見せた。「君は兵卒である前に、職務放棄という重罪を犯した身だ。それに職務放棄なんて記録に残ったら、出世を望めないどころか一生下働きだろうね」
   文台は話の内容どころか、目前にいる公偉という人物の性格自体をはかりかねていた。彼を持ち上げていたと思っていたら、すぐに痛いところをついてくる。文台は困惑している。「それはどういう意味だ!」
   公偉は文台に少し勝ち誇った顔を見せていた。彼は文台の眼差しを一呼吸おいて見守りやがて口を開く。「もし私の元で働くんだったら、私の権限で君の故郷の役所に口添えして職務放棄のことを記録から抹消して何もなかったことにしてやるよ……ただし、当然だけど、ここでの兵としての手柄はなかったことになるがな」
   文台は口元を真一文字に結び、眉間にしわを寄せ目を伏せる。彼は深く考え込んだ。公偉は彼からの次の言葉を静かに待つ。そのため、奇妙な静寂が訪れていた。
「あんた、きたねーよ」文台は観念した様子でわずかな静寂をやぶる。「じゃ、俺はその仕事を受けるしかないじゃないか」
「そのとおりだ」公偉はゆったりと答えた。憎らしいほどの優しげな眼差しを文台に向ける。「いい取引だろ?   もちろん承知するよな?」
   文台はゆっくりとうなずく。彼は声を出したくても出せないでいた。文台の胸の中で戦に負けたときと同じ悔しさが渦巻いていた。
「よし、そうこなくては」公偉は文台と対照的に明るい様子だった。彼は突然、立ち上がり文台を見る。彼の背は文台よりやや低いので彼の視線はやや上向きになっている。「では、今から馬舍に向かうぞ……あ、君はここで兵卒をやる前に故郷で伝馬の任務についていたから、もちろん乗馬には達者だろ。それからお金はたっぷり持っていくから着替えや食糧は道中で調達すればいい……」
「待て、そのまま京師まで行く気か?」文台は速い展開に少したじろぎ、公偉の言葉を遮った。
「何言ってんだ。これは急を要する任務だぞ……ついでに言えば、秘密の任務でもある……」公偉はもたつく文台をしり目に今にも飛びださんとする勢いだった。「まさか、今さら怖じ気づいたんじゃないだろうな?」
   今度は文台が勝ち誇る番だった。文台は含みのある笑みを浮かべる。「主簿どの、敵軍は退却したとはいえ、まだ郡内にはたくさんいますぞ。そんな明らかに郡吏(やくにん)ってわかる格好で城の外へ飛び出したら敵にやられるのは時間の問題でありますぞ」
   文台の芝居じみた発言に、公偉ははっとする。その様子を見て文台はますます愉快な気分になっていた。ようやくこの男に一矢報いたと文台は思っていた。
「そ、そのとおりだ、孫文台」公偉はうろたえた様子を懸命に隠そうとしていた。そして彼は視線をそらし少し考え込む。「んー、そうだな…では、民間人の格好をして…それもなるべく貧乏人のような格好に着替えて、馬舍じゃなくて西の城門に集合だ」
   公偉は無様な様子を隠すように部屋から出ていこうとしていた。公偉の背中を見守る文台は声を出して笑いそうになるのを必死に押さえていた。
   公偉が部屋の出口まで足を運ぶと、急に文台の方へ振り返る。文台はゆるんだ顔を必死で真顔に戻す。公偉は口をあける。
「そうそう、君の捜索願いの書だけど、他のことも書いていたぞ」公偉は悔しげな表情がすっかり消え失せいつもの明るい顔になっていた。「『もし孫文台にこの書が届くことがあれば、文台の兄が昨年の一二月に結婚したことをお伝えください』てね」
   文台の目は大きく開いた。それは驚きによるものである。最後に文台が兄と会ったのは昨年の一一月であり、その頃、父の反対もあってかまったく結婚のめどが立っていなかったのである。それなのに文台が故郷から遠く離れている間に彼の兄はすでに結婚していたのだ。そう思うと文台は何か大事な時期を逃してしまったような歯がゆい気分になっていた。
   公偉は呆然とする文台をなめるように見つめる。そして口の端をあげる。「ふっ、その様子だと何も自分の家のことを知らなかったようだな……孫文台どの、君がもし次に職務放棄をするようなことがあれば、ちゃんと家族と書簡のやりとりをすることをお薦めするよ」
   そう芝居じみた口調で言い放ち、公偉は素早くその部屋を後にした。残された文台は恥ずかしさと悔しさからみずからの顔を赤く染めていた。