「京師まで三千八百里」   一、城郭
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「ここはくい止める!   はやくそいつを城内に運び込むんだ!」
   青年は、急な敵襲でうろたえる仲間四人へ背中越しに声をあげた。仲間の一人は足に怪我を負っていて自由に動けないでいる。怪我を負う一人を残りの仲間二人が両脇から抱え城へとそそくさと歩を進める。
   青年が見据える方向からは三人の敵が走り寄ってきていた。青年はその敵三人へ睨みをきかす。青年は城門を背にしていたが、逃げるそぶりを少しもみせないでいた。
   向かってくる敵の三人がみな戦場で少しでも手柄をたてようと青年に刃をつけようとしている。あとまばたき二、三回で一人目の敵が青年と刃を交える。
   青年は戟(げき)と呼ばれる棒状の武器を両手でしっかりと握る。しかし、その武器の先端は地面へと力無く置かれていた。それに対し、敵はそれぞれが持つ戟をいつでも振り落とせるように振り上げながら青年の元へ走り寄っている。
   城壁の内側へと敗走した味方の軍、それを追い勢いづく敵の軍。それらを象徴するかのように、今まさに激突しようとする青年と手柄にはやる敵三人。
   青年の元へ走り寄ってきた敵は、薄ら笑いを浮かべながら大きく戟を振りかぶる。その瞬間、青年は素早く地面に置いていた戟の先端を突き上げる。
「うぐ」
   敵一人の喉から吐き出た声は鈍く小さいものであったが何が起こったかを充分に物語っていた。青年の戟はちょうど敵一人の死角からあらわれ胸の中へ突きあてられていた。戟の刃は鎧に当たり敵一人の肉体へ触れることはなかったとはいえ、敵が気絶し戦えなくなるほどになるのには充分な勢いと力強さがあった。
   その小さなうめき声は青年の耳以外にも届いたのか、左前から来る後続の敵が一瞬、勢いをとめる。青年の目はその動きを逃さない。間髪入れず、青年は前へ踏み込みながら突き出した戟を横殴りに振る。
「ぐがっ」
   敵の左脇腹へ鎧越しに叩きつけられた戟は一つの大きな悲鳴を奏でた。敵は響きを残すかのようにあえぎながら地面に崩れ落ち、やがて無音状態になる。新たにやってきた右の敵はその音に恐れをなしいつの間にか後ずさりしていた。その敵の少し向こうに敵兵が大勢やってきていた。
   青年は戟を地面へ捨て、素早くきびすを返し、全速で城門へ飛びはいる。門は轟音をたて閉められ、それにかんぬきが厳重にかけられる。青年は城壁の内側で地面に伏し、しばらくの間、せき込むほど激しい息づかいをしていた。
   ようやく青年の息が平常になったころ、仲間の兵が近づく。
「やるな、孫文台。一時はどうなるかと思ったぞ」
   仲間の兵が孫文台と呼ばれる青年に話しかけた。青年は何とか立ち上がる。
「馬鹿、まだ戦は終わってないぞ!   早く城壁に……」
   文台という名の青年から発せられる言葉は自らの咳で中断された。彼はそれでもなお戦いに向かおうとしている。
「敵軍はこちらの城門がしまったのを見たら退却していったぞ」
   仲間はそう言って無茶する青年の文台を制した。ようやく文台は安堵の表情を浮かべる。
「そうか…とりあえず一安心だな……そうだ、足を怪我したやつに薬がいるなぁ。よし薬は俺に任せとけ」
   そう言い残すと文台はもう薬を探しに歩みを進めていた。


   孫文台はある建物に足を踏み入れた。彼の眼前には長い廊下が続いている。その建物はこの郡の政治と軍事の中枢にあった。死線をなしている城壁のすぐ内側は味方の声が絶えることがなかったが、さらに内側にあるこの建物は文台自身から出る息継ぎがうるさく感じるほど静かであった。
   文台は廊下を歩き始めた。彼の足音が何重にも響き始める。よく清掃の行き届いた建物とは対照的に彼の身なりは戦塵で汚れはてていた。
   文台は急に歩みをとめる。彼の視線は廊下の脇へと向いている。
「ここに傷薬がありそうだな……」
   文台は誰に言うでもなくぼそりと口に出し、一番手前にある部屋へと歩を進めた。
   部屋に足を踏み入れた文台の目には机にうつむいて木簡を読む男が映る。
「すいませーん。怪我人が一人いるんですけど、傷薬と布をくれませんか?」
   文台は目の前の男に声をかけた。男はその声にまったく反応せず手を休めようとはしないでいる。
「ここは主簿の部屋であって医者の部屋じゃないよ。当然、そんなもんはない」
   男はぶしつけに答えた。文台は少しむっとし、挨拶もなしに背を向けその部屋を出ていこうとしていた。
「ちょっと待て」男は背を向けた文台に声をかけた。文台はそれに応じ、振り返って男の方へ面と向かう。男は文台と目が合うと口の端を少しあげる。「やっぱりだ。どうも声が若いと思ったらまだ子供じゃないか」
   それを聞いて文台は再びむっとし、男をにらみつける。「俺はもう一七だ。子供なんかじゃない!」
「おお、すまん、すまん。どうも私は人の年齢を当てるのが下手なもんでな」
   文台とは十歳ほど歳の離れた男は自分の非をあっさりと認め、無神経な笑い声をたてていた。文台は自分の怒りが爆発しないようにと、さっさと背を向け部屋を後にしていた。
「なんだ、礼儀の知らんやつだな」
   男は文台が先ほどまでいたところへ愚痴をいった。返答する者はすでに誰もいなかった。


「どうやら傷はそれほど深くないようだな」
   孫文台は仲間への傷の手当てを見守り安堵の一言を発した。敵軍が撤退した後、文台にとって唯一の気がかりは傷ついた仲間のことであった。ようやく安心した文台は他の仲間と同じように兵舍の牀に腰をおろす。それをきっかけに仲間が口々に話をし始める。
「そうだな。退却のときに俺たちの組が一番うしろにいたのに怪我人一人だけってのは奇跡的だぞ」
「そうだな、俺たちには凄い幸運があるぞ」
「いやいや、最後の文台の動き、見ただろ?   こりゃ、文台のおかげだぞ!」
   ある仲間の最後の一声でその場にいた四人は文台以外全員、同意の声を出し大きくうなずいた。文台は照れ笑いをする。
「俺はただ伍長として責任を果たしただけだ」
   文台はそう言って謙遜した。伍長とは五人組の兵卒の長のことである。
「いや、前の伍長も、その前の伍長も、俺のことなんて全然、気にもかけないで、自分の命ばかり気にかけてたぞ」
「そのとおりだ。文台は特別だって」
「文台が余所からきたなんてとても信じられない……本物の会稽人より会稽思いだ」
   仲間たちはそれぞれの言葉で文台を賞賛した。文台は照れでどうしようもなくなる前にどうにかして話をそらそうとする。
「これが勝ち戦だったら全員に手柄がわたってたんだけどなぁ」
   文台は何とか別の話題をふる糸口を見つけだしそれを口に出した。
「ま、鼻っから勝てる戦じゃなかったから仕方ねぇ。命があるだけでもありがたいや」
「だいたい、ちょっと前まで城を敵軍に包囲されていたのに、敵軍が退却したからってんでそれを追撃しようって根性がいけねえや」
「ほんと、ほんと、いくら俺らががんばっても、戦を指揮する太守がどうしようもなかったら元も子もねえ」
「そうだな。攻められているうちの会稽郡より援軍にきた丹陽郡の方が活躍してるってのは、うちの太守が情けないからだ」
   話題はいつしか文台への賞賛から太守への不平に変わっていた。太守とは郡を治める長であり、また郡における軍事の長である。文台はそれらの話題に対して露骨に眉をひそめる。文台は、自分が褒められてばかりいる話題とは比べようのないほど、その場にいない者への悪口の言い合いに常日頃から嫌悪感を抱いていた。
   仲間たちは、そんな文台の表情を気付くより早く、兵舍の入り口の方を向く。そこにはゆったりとした服装をした男が立っていた。その男の腰から前に垂れている、綬と呼ばれる絹は青紺色をしており、それはその男が位の低い郡吏(やくにん)であることを示していた。
「ここに孫文台ってやつはいるか?   そいつはよそ者らしいんだけど…」
   その郡吏はその場の状況も確かめず文台たちに訊いた。仲間たちは郡吏に対して一斉に手で文台の方を指し示す。文台は弓なりに両方の眉を上げる。
「俺が孫文台ですが、何か?」
   その文台の言葉を聞くなり、郡吏は文台を指さした。
「あー、おまえが孫文台か。それではすぐに主簿どののところまで来てくれ……えーと、場所はわかるよな?」
   郡吏は矢継ぎ早に話した。文台は最後の質問に対して首を縦に振る。主簿とは郡の庶事を取り仕切る役職の名前である。文台の記憶には確かに主簿の部屋の位置がはっきりとあったが、なぜ知っているのか文台自身、わからないでいた。
「では、私はこれで」
   郡吏はそう言うと来たときと同じ唐突さでその場から姿を消した。兵舍にいた文台とその仲間たちは、文台が主簿に呼ばれたことは理解していたが、なぜ呼ばれたのかはまったく予想できずにいた。
「なぜ、文台が主簿なんかに呼ばれたんだ?」
   仲間の一人が口火をきった。
「多分、文台が昇進するんで呼ばれたんだ!」
   すぐに別の一人が応じた。その一言で他の仲間は口々に共感の声をあげる。
「文台ほどの男が伍長の役におさまっているのはもったいないからな」
「今回の戦でで、ようやく文台のすごさがわかったんじゃないかな、お偉いさんたちに」
   仲間たちは口々に興奮と喜びのこもった声を出していた。文台はそんな仲間たちの熱気に押され少し喜んだ表情ながらも困惑と疑念の色を浮かべていた。
「負け戦で昇進なんてちょっとおかしいし、主簿の役と昇進はなんかつながらないなぁ。まぁ、ちょっくら主簿のところまで行って用件を訊いてくる」
   文台は、はやる仲間を制した。みずから発した言葉どおりに文台は兵舍を後にし、主簿の元へ歩を進めた。兵舍に残された仲間たちは文台の言葉を聞いても彼の昇進を信じたままでいた。