目をとじれば   一一歳
176-
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   俺が目を覚ますと、耳にこそばゆい音がしていた。
   目の前が真っ暗だから、まだ起きるときではない。だけど、このひそひそ声がとても気になる。気になると眠れない。

   何気なく耳をすまして見ると、その声の一つは母ちゃんの声。それからもう一つはそれより低い、そう父ちゃんの声だってわかる。

   そうか、今晩は戌卒(じゅそつ)の任が解かれ、父ちゃんが帰って来るんだった。
   そう思ったら、上半身を起こしていた。牀から飛び降り、履(くつ)をはき、闇に気をつけて、のろのろと歩く。もう十一歳だから、叱られることはないだろうと信じながら。

   胸の鼓動を耳障りにかんじながら、俺は着実に前にでる。
   ようやく、灯りが見えるところまで来る。ここまでくると、父ちゃんと母ちゃんの声がちゃんとききとれる。
「天田の足跡は日増しに多くなる一方なんだ。鮮卑(せんぴ)が盧龍塞を越えて攻めてくるのも時間の問題だ」
   父ちゃんは怖い声を出した。
「郡から軍が派遣されるんでしょ?   大丈夫なんでしょ?」
   母ちゃんはおびえた声を出した。

   俺には何のことかわからなかったけど、真面目で深刻な話だってことはわかった。寝ぼけた頭でもこんな中、顔を見せにくいってことはわかる。
   父ちゃんの矛先がこちらに向くってのはわかってるんだ。
   だけど、母ちゃんをこのままにしたくない。
   目をこすりながら、父ちゃんと母ちゃんのところへ出た。

「なんだ、當(とう)!   子どもがこんな夜遅く出てきていいと思っているのか」
   やっぱり、父ちゃんの矛先がこちらに向く。
   こういう風に俺の名が呼ばれるのはとても嫌だ。同じ「當」でも絶対、違う。
   胸が暴れている。こんな父ちゃんは本当に怖い。
   でも母ちゃんを守らないと。
「だって、母ちゃんが……」
   俺は父ちゃんの一にらみで言葉を詰まらせてしまった。
「さあ、わかっただろ?   大人しく眠っとけ」
   父ちゃんは右手で追い払う仕草をした。

   歳は若いし、体も小さいけど、俺はもう未使男(こども)じゃない。
   こんなので牀に戻ったら、未使男に逆戻りってことだ、俺はそう信じていた。
   一度は来たところを向いたけど、再度、振り返った。
「僕も韓家の一員だよ。何があったかぐらい知りたいよ」
   俺は体の勇気を振り絞った。

   父ちゃんがにらんだ、そう俺が見て取った瞬間、父ちゃんはにやりとする。
「ははっ、やっぱり、おまえは小男(おとこのこ)だな。家族を守るってもう考えているんだから」
   そういって、俺の元に近づき、左肩をぽんとたたいた。
   俺はほっとする。父ちゃんは続ける。
「だけど、心配するな。この家には儂がいる」
   父ちゃんの言葉で、俺の肩の力がぬけた。
「そうよ。心配ないんだから」
   母ちゃんも俺の元に近寄り、右肩にそっとふれた。
   父ちゃん、母ちゃん、ふたりのおかげで、俺の心の内にある引っかかているものがすっとしたようだった。

   安心した。
   そう思うと、なんだかまわりがぼやける。そうだ、俺、ねむいんだ。
「韓家には、ぼく、當(とう)もいるんだからね。安心して…」
   目をこすりながら、俺はその場にいようとした。
「そうだ、おまえは男だ。頼りにしてるぞ……だから今日はもう寝ろ」
   と、父ちゃんの声。
   それを目で確かめられないぐらい、俺は瞼を重く感じていた。
   俺はこくりとうなづいて、寝牀に戻る。

   また、牀で横になる。
   さっきのことが心の内でよみがえる。
   そういえば、母ちゃんの声は震えたままだった。
   「心配ないんだから」っていう言葉だけど。
   それはなんでだろう、もう一度、一目、確かめたいっていう気持ちがでてきた。
   母ちゃんの顔を見れば、嘘か本当かぐらいはわかるような気がした。
   だけど、もう一度、目を大きくあけるなんて、無理だ。眠い。

   俺は目をとじた。