馬上の少年   〇八
172/11
<<小説本編の入り口へ戻る
<<〇七


「ははは、助かった、助かったぞーー」
   孫文台は愛馬、光の上で歓喜の声をあげた。彼はもう安全だと確信し、ようやく声をあげていた。側近たちから逃げるとき、少女を光の背にのせ、彼はいつもより少し後方に座るといった変則的な乗馬で、とても不安定な体勢だった。その時、彼は耳元で何回か矢が風を切る音をきいたが、矢が彼の体に触れることはなかったようだ。光は人を二人も乗せているというのに力強くそして順調に銭唐の街へと駆けていた。
   今、文台の前には少女が座っていた。先ほどまで彼女は腹を光の背にあて乗っていたが、今は体制を入れ替え、光の左側に両足を投げ出す形で光の背に腰掛けていた。彼は少女が馬から落ちないように座る場をつめ右手で少女の肩を支えていたが、少女の方はずっと進行方向に顔を向けたままで彼の方へは振り向かないでいた。あんな殺戮を目の当たりにしたのだから呆然とするのも無理もない、と彼は思った。ここは何とか場をなごませないと。
「やつらには驚いたよ」と文台は明るい口調で行く先を向く少女に話しかけた。「俺の先輩が言ってんだけど、山賊や海賊は奇襲をかけられると身の安全をはかるため一旦、後ろへ下がるらしいんだ。でも、さっきのやつらはただ者じゃない。平然と矢をうってきやがって…」
   文台は話しかけながら、はっとした。だめだ、場を和まそうとしているのにさっきの話をしてどうする、それも争いのことを、と彼は心の中で自分を責める。彼は自らの心の中が依然、戦の中にあることに気付く。一方、少女は光の背に揺られるだけでぴくりとも動かず、行く先を見つめているだけだった。
「ほ、ほら、あれだ……」文台は動揺しながらも、何とか話題を変えようとしていた。我ながら動揺すると言葉が乱れるところが兄とそっくりだなと、内心、彼は自嘲している。「最近、寒くなっただろ?   それで馬に乗ってて大丈夫かなぁって思ったんだ」
   文台の声を聞いて、少女は彼の方へゆっくり振り向く。
「心配していただきありがとうございます。これくらいの寒さなら大丈夫です」
   少女の声は、少しかたさを含んでいるもののとても元気な声であった。
   上背の違いで、文台は振り返った少女の顔を見下ろす形になった。文台の目には、上目遣いで見つめる少女の明るい顔が映っていた。
「あっ」
   文台は思わず声をあげた。彼はこの少女を自分より随分、年下と思いこんでいたが、間近で少女の顔を見てみるとそうでないことを知る。少女は彼とまったくの同年齢だ。いや、彼が声をあげたのはそれだけではない。彼にとってその少女の顔は、まさしく美人そのものだった。
   その美しさに若さからくる可愛さが加わった顔で少女は文台を見つめている。彼は今までこの少女の顔を間近で見たことがなかったことに気付く。そういえば、ちらりとしか見たことなかったなぁ、と彼は思い出している。彼は自分の顔がとても熱くなっているのを感じていた。少女はそんな彼の様子を少し不思議に思い彼をまじまじと見つめている。
「どうかいたしましたか?」
   少女は少し怪訝な表情で文台に言った。文台は自分の心を少女に見透かされたかと思い、少し恥じる。
「いや、なんでもない……」
   文台は言葉を詰まらせながらも何とか少女に返答した。弱った、と彼は思う。今まで彼は少女のことを殺人現場に居合わせた被害者としか見ていなかったけど、今はそういう目で見ていない。彼の心はとても舞い上がっていた。彼は心の中でつぶやく。そう、こういうときはまず名前をきくことからはじめるんだ、と。
「あのー…」
   と文台が少女に話しかけようとした。その時、彼は話相手の顔を見失い、胸に奇妙な感触を感じていた。少女の顔は彼の胸の中にあった。
   文台は一瞬、少女が自分の胸に顔をうずめたかと思ったが、そうではなかった。事実は彼の体が少女の方へと近づいていた。彼は真っ先に自分の体を疑ってかかる。
   文台はこの気まずい雰囲気から顔を背け、遠くの風景の方へ目をやった。そうすると不思議なことにさっきまでの風景が視界のかなり高い位置にきていることに、彼は気付く。彼は驚いて、足下へ目をやった。そうすると、光がなぜか足をとめ、前足をかがめていた。
   光は後ろ足をたてたまま、前のめりに地面へと倒れていた。そのため、文台は光の背の上で前に滑り少女にぶつかっていたのである。彼は驚いてすぐに光から降りる。
   それでも、光は痛々しい悲鳴をあげていた。


「光っ、光っ、しっかりしろ!」
   少年はそう何度も何度も叫んでいた。
   呆然と立つ呉江姫は目の前の様子を眺めているしかなかった。彼女の前には、倒れた馬のもとへかがみ込み、取り乱す少年がいる。その少年は光と呼ばれる馬の後ろ足の太股に、自分の服からとった布を当てて流血を止めようと懸命でいる。すでにその布は光の血で染まりきっていた。
   今日一日だけで、江姫にはいろんなことが起きていた。今、生きていることが不思議なくらいと思うようなことも中には起こっていた。彼女を助けてくれたのが目の前の少年。初めてこの少年を見たとき、恐れ知らずに神懸かり的な動きで殺戮者たちに斬りこんでいたせいか、彼女は少年を自分よりかなり年上だと思っていた。ところが今、ここで平静を失っている姿は子供そのものだと彼女は感じている。
   殺戮者たちから逃げるときに放たれた矢が光の腹に深く突き刺さったんだと、今は少年にも江姫にもわかっている。ただ馬上では見えないところだったのでずっとわからずにいたんだと。彼女には光がもうぴくりとも動かなくなってしまっていることが見えていた。息すらしていないことも。少年は急に彼女の方へ振り返る。その表情は親に意味のない言い訳をする子供のようだった。
「気付かなかったんだ」少年は江姫にうったえかけた。「あの場から離れてからずっと光はいつもとまったく変わらない走りをしてたんだ。それも二人も乗せているのにだよ。まさか矢が腹に刺さってるなんて!」
「あなたは何も悪くありません」江姫は精一杯のやさしさでしゃがみ込んでいる少年に声をかけた。「でも、残念だけど、その馬はもう駄目です……」
「嘘だ!」その少年は急に立ち上がり叫んだ。「光は元気に立ち上がるんだ、いつものように立ち上がるんだ」
   江姫はそんな少年をやさしく包み込むようになぐさめてあげたかった。しかし、今、その少年にはやさしさより現実と向き合う勇気が必要だということを彼女はわかっている。以前、この少年が自分に言ったことをそのまま言い返すときなんだ、と彼女は決心した。
「その倒れている馬が通ってきたところをよく見てください」江姫はやさしい口調で話しかけた。「ずっと血のあとが続いているでしょ?   これだけ血が流れていたら、もう死んでいます……あなたも県吏(やくにん)なら、近くの県府(やくしょ)に行って早くこの事件を報告してください…」
   少年は光の方へ振り返り視線を下げ、地面を見渡していた。その様子を江姫はじっと見つめていた。彼女の目には、それまで大きく見えていた少年の背中がとても小さく見えていた。彼女はこの少年に冷たくあたってしまったと少し悔やんだが、これはこの少年のためだと自分に言い聞かせている。
「うおおお」
   その少年は大声で泣き叫び、地面へと崩れ、うずくまった。そしてその少年は地面を痛々しいくらい何度も何度も叩いていた。