馬上の少年   〇七
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   周りの悲惨な様子や身近でおこっている緊迫した状況とは裏腹に、空は青く晴れ渡っている。孫文台は自分が肩で息をしていることに気付く。早く息を整えなければと彼はあせるが、うまくいかず逆にせき込みそうになる。
   文台は改めて現状を確かめる。まず彼が間近で背中向けにひっつかまえている頭領、次にその頭領越しに彼と面と向かっている側近五人、そして彼の後ろ数歩に唯一の生き残りであろう、少女がいる。
   文台は深いため息をつきたくなった。もちろん、こんな緊張したときにそんなことを彼ができるわけはない。彼が昔からこういう状況にとてもあこがれていたことは確かだ。賊や反乱者と一歩も引かずにやりあい、民衆を守る状況。彼が県吏(やくにん)に志願したのは、もしかすると、そういった状況になるかもしれないという淡い期待からだ。少なくとも、他人がつくったものを別の他人に売り自分の利益にする商人にはなりたくなかった。
   文台の夢はまさに現実になっていた。その夢とは彼自身が賊の矢面に立って民を守ることである。しかし、彼は昔からの夢と早急にやってきた現実との大きな違いに苦しんでいる。すぐ醒める夢とは違い、目の前の現実は死と隣り合わせだ。まだ彼自身の命があること自体、不思議なぐらいだ。
   文台は今、頭領の喉元に鉄刀を押し当てており、まさに頭領の命を手中にしているが、同時にそれは彼自身の命綱でもあった。彼は頭領に悟られないように何とか体の震えをおさえていた。
「よしそのままだ」文台は捕らえている頭領にささやいた。「動くなよ。俺がおまえの命を握っていることを忘れるな」
   文台は何とか次の行動をひねりだそうとした。だが、まだ興奮で彼の頭が熱くなっておりうまく考えがまとまらない。そもそも何でこんなふうになったんだ、と彼はなんとか思考を巡らす。
   ことの発端は文台が光(こう)に乗り銭唐の城(まち)を目指していたときに起こった。彼がすすむ道の遠い先の三叉路で惨殺の光景が見えた。それは黄色い奇妙な服をまとう男性数人が次々と周りの人を斬り倒していく光景だ。彼はそれを見た次の瞬間には全速で光をその場へと駆けさせていた。そこから先は頭に血がのぼっていたので彼は断片的にしかその時のことを覚えていない。ただ、なぜかその時、幼少のころを思い出していた。それは家にころがっていた兵法書を読んでいた記憶。その書物にはこう書いていた、可能な限り敵の総大将を狙え、と。
「おまえ、このままですむと思うなよ」文台が捕らえた頭領は体だけでなく声までも震わしていた。「わしに傷一つでもつけてみろ。わしの側近の者がおまえを八つ裂きにするぞ」
   言われてみればそうだ、と文台は思う。もし怒りにまかせてこの頭領を殺すと今度は彼自身が前の側近五人に殺されてしまう。その時は彼の後ろにいるただ一人、生き残っている少女も殺されてしまう。県吏として、いや、人として、彼はこの少女を絶対に守らなければならない。では、どうすればいいのか。
「光っ」文台は自分の愛馬を呼んだ。遠くから光は彼の元へ駆け寄ってくる。彼はさらに光へ呼びかける。「俺の後ろでまっといてくれ」
   光が文台から少し離れたところに着くと、文台は後ずさりしながらそこへ向かう。無論、彼が頭領を捕らえたままでその体を引きずっている。彼はうしろの少女のことを気にかける。
「お嬢さん、その馬に乗るんだ」
   と文台はうしろの少女に呼びかけた。彼は横目で少女を見る。ところが、少女はぴくりとも動く様子がなかった。再び彼は正面を向き、側近五人を鋭くにらむ。しかし、彼の気はその少女に向いていた。
「どうした、早く馬に乗るんだ」と文台は再び呼びかける。「腹這いでも何でもいいから、とにかく馬の背の上に乗っかるだけでいいんだ」
「で、でも…」ようやく少女は口を開いた。その声は文台にとても弱々しく聞こえた。「私以外の人もいるんですよ。その人たちはどうやって助けるっていうのですか?」
   自分の置かれている状況がわかっているのか、と文台はこの少女に少し苛立ちをおぼえる。
「この場で倒れている者たちをよく見ろ」文台は吐き捨てるように声を出した。「こんだけ血が流れていたら、皆、もう死んでいる……おまえも死にたくなかったら、さっさと馬に乗るんだ!」
   少女は視線を下げ、地面を見渡していた。その様子を文台は視認する。ようやくこの少女は現実と向かい合ったか、と彼は思った。文台はひどいことを少女に言ったかと少し後悔したが、この状況では仕方のないことと自分に言い聞かせた。
「うっ」
   と、その少女は喉から吐くような声を出した。その後、彼女は口を手で押さえながら前屈みでのろのろと光のもとへと向かう。やがて、彼女は前から光の背に体重をあずけた。ちょうど光の背に彼女の腹をあて頭と足をたらしている状態だ。
   少女が光に向かっている間に文台もじりじりと後ろ向きに光へ向かっていた。その間、文台は五人の側近たちに睨みをきかせていたが、側近たちはじりじりと慎重に文台を追っていた。文台は光を横目で一瞥する。
「やっ」
   と叫んだのは文台であった。彼はそのかけ声と同時に鉄刀を握る右手をあげ、捕らえていた頭領の背中を左足で蹴り飛ばした。頭領は前のめりに地面へとたたきつけられ、弾みで顔の右側を強打する。
「動くな!」
   と文台は側近たちに叫んだ。彼は鉄刀を振り上げたまま、側近たちをにらみつけた。彼は鉄刀を握り振り上げた右手をそのままにして左手を軸に光の背へ飛び乗った。彼がすわる光の背の前には少女がぶら下がっていた。
「だぁっ」
   文台はかけ声とともに右腕を振り下ろした。それと同時に彼の右手から鉄刀が解き放たれる。勢い良く投げられた鉄刀は、倒された頭領の左肩の上、頭の左の地面に突き刺さった。
「ひゃっ」
   と頭領は情けない声を出した。頭領の目の前で地面に突き刺さる鉄刀をひんむいた目で凝視している。
   五人の側近たちは頭領の安全を確認するとすぐさま文台の方へ視線をうつした。その時にはすでに文台は両手でしっかりと手綱を握り、光を遠くへと駆けさせていた。
   側近たちは鉄刀を鞘におさめ、弓を構え素早く矢を何本も放ったが、どの矢も文台の勢いをとめることができなかった。やがて、側近たちの視界から完全に文台たちは消えていた。