馬上の少年   〇九
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<<〇八


   呉江姫は銭唐の県城(まち)の通りに立っていた。その県城(まち)は彼女の故郷であったが、真っ先に家に帰らず県府(やくしょ)の前で待っていた。待っている間だけでも、ずいぶん影が長くなったなぁ、と彼女は自分の足もとを見てそう思っていた。こんな長い間、彼女は悲観にくれるあの少年から目を離していたのは気が気でなかった。
   江姫は左手の方で門が開く音を聞いた。彼女が音がする方へ振り向くと顔見知りの少年がこちらへ向かってくるのが見えた。その少年は思いつめた表情をしてうなだれていた。少年は彼女の方へ顔を上げる。
「やつらの正体がわかったよ…」と少年はうつろな顔でつぶやいた。やつらとは江姫を襲った者たちのことである。「県府で話をきくと、やつら、会稽郡で反乱を起こしている一味らしい。その身なりがそっくりらしいんだ」
   少年は県府に入るずいぶん前からずっと元気がなく思いつめていた。よっぽど自分の馬が目の前で死んだのが衝撃的だったんだろうなと、江姫は思った。目の前の少年の気持ちを察すると、彼女は胸がいっぱいになり言葉が出なくなっていた。それでも喉に力を入れてなんとか話そうとする。
「…会稽郡っていえば、ここから南にある浙江のさらに南側ですね」江姫は少年に話した。その声には少しかたさがあった。「私たちが襲われたのは浙江の北側の呉郡だったからかなり離れているのにどうしてでしょう」
「反乱者も黄色い奇妙な服を着ているらしいからそいつらに間違いないんだろう」少年は江姫に返答した。少年は彼女に顔を向けているが視線はどこか遠くの方へ向いているようだった。「多分、食糧調達か何かで呉郡に来ていたんだろう。数日前から、官軍も反乱軍も食糧を求めているらしいから…」
   少年は淡々と江姫へと語っていた。彼女の目の前には確かに少年はいたが、その心はどこか遠くにいってしまったようだった。少年の顔はうつろな表情から急にけわしい表情に変わる。
「ゆるせない」
   と少年は突発的に言葉をはいた。江姫は少し驚いたがすぐに少年の心情が理解できた。彼女には、彼が馬を殺した者たちをよほどゆるせないのだろうと思えた。彼はよほど悔しい思いをしているのだろうと。
「ゆるせないのはわかります」江姫は少年に同意した。彼女は彼をどうにかして励まさないといけない気分になっている。「でもいずれ官軍が反乱軍を倒してかたきをとってくれますよ」
「いや、ゆるせないのは反乱軍じゃない、俺自身だ」
   少年は何もない空間の一点を見据えたまま、そう言い放った。それを聞いて江姫は言葉を失う。そんな彼女の様子とは無関係に、彼はさらに話を続ける。
「俺は自分の夢を追うあまり、光を守ってやることができなかった……」
   少年は思いつめていた。江姫はそんな少年に同情している。最後まで傷ついてることを悟られずに主人を乗せていたような、心のやさしい馬を死なせてしまうなんて悲しすぎること、と彼女は思う、彼は自分の馬が死んだのはすっかり自分のせいだと自分の殻に閉じこもり自分を責めているんだ、と。そして、少年の小さな胸にはあまりにも大きな思いを押し込めてしまってるんだと。できれば、その心の痛みを代わりに受け止めてあげたい、とする彼女は思っていた。
「ゆるせない」
   少年は自分に向けて再び言い放った。その声は力強さがなく痛さが江姫の心へと響くような声だ。彼女は彼にかける言葉を思いつかなかった。沈黙が続く。


「決めたぞ」少年は突発的に声を出した。急に魂が吹き込まれたような力強さがその声に込められていた。「光を死なせてしまうような者に伝馬の仕事なんてやる資格はない。俺は会稽へ行く。そこで一兵卒として働く。せめてもの光に対する罪滅ぼしだ」
   少年はそう、矢継ぎ早に言って決心を口にすると、江姫の前を通り過ぎ、南へと進もうとしていた。彼女は彼の突然の決断にかなり当惑している。もしかしてこの少年は自暴自棄になっているのでは、と彼女は疑った。とにかく彼を引き止めて話を聞こうと、彼女は思った。
「待ってください」江姫はすでに背中を向け歩き出していた少年を呼び止めた。彼は江姫の方へ振り返る。彼女の目に彼の決然とした顔が映る。彼女にはそれらしい言葉が思い浮かばないでいる。「もう日が暮れます……それに、夜道は危険ですよ。今日はこの県城に泊まって出発は明日にした方がいいですよ」
   自分で言ったことだけど下手な言い訳だと、江姫は思った。少年は、そんな彼女の白々しい言葉でも彼女の目をみてしっかりと聞いていた。そして彼は、ぱっとやさしくさわやかな笑顔を浮かべる。
「心配するなって。なーに、いざとなれば野宿するさ」
   と少年は江姫に告げ、軽く手を振り背中を向け、再び南へと歩を進めた。彼女は彼の笑顔を見て納得していた。この人は何かをつかみかけているんだ、と。

   江姫はもう少年を引き止めようとはしなかった。彼女は彼の決心の邪魔をしたくなかった。彼女は右から日光につつまれる彼の後ろ姿をじっと見ている。彼の姿がもうずいぶん小さくなったころに彼女は彼に言い忘れたことがあったのに気付く。
「県吏さまーっ」江姫は腹に目一杯の力をこめて叫んだ。「助けてくれて、ほんとうにありがとうーっ   私、一生、わすれないよーっ」
   少年は江姫の方へ振り返らなかった。その代わり、彼は右手を大きく振ってこたえていた。振り返ると決心がにぶってしまうんだろう、と彼女は彼の思いを察する。

   江姫の目には、まだ彼の背中がしっかりと映っていた。もうずいぶん遠のいたのに彼女はその背中をとても大きく感じていた。

   青年の背中のように。