馬上の少年   〇四
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   冬の朝のひんやりとした空気の中で暖かな朝日が射し込む心地よいところ──孫琉台はここにそういう印象をいだいていた。
   朝食づくりの手伝いは一五歳になる琉台にとってもう習慣になっていたが、依然、いやなものであることに変わりはなかった。それでもこの季節のこの時間のこの場所での日差しを彼女はとても気に入っている。
   琉台は、家事は召使いをやとってその人にやってもらえば良いと考えている。今の孫家の財産なら充分雇えることだし、そうすれば彼女自身が今よりもっと店のために働いても良い、といった気でいた。そうなれば、毎日、とびきりのおしゃれをして店の前にたって、よその客もうちの客にかえてみせるのに、といったことを彼女は夢見ている。ふと彼女の心に父の顔が思い浮かんでしまう。彼女は思う、若いとき、貧乏で苦労した父は店と関係ないことに人を雇う贅沢なんて到底、許してくれないだろうと。
「ちょっと琉台ちゃん」と母の声が物思いにふける琉台に注意をうながした。「ほら、そろそろ煮上がるから、料理台に器、並べてちょうだい」
「あ、はいはい」
   外を眺めていた琉台は我に返り、そそくさと器、六つを並べる。それを一瞥した母が手際よくそれぞれの器に盛りつけている。続いて、蒸しあがった飯を盛ろうとする母をみて、彼女はあわただしく別の器を六枚並べる。それと並行して、彼女は先ほど盛りつけの終わった器を六つの膳にそれぞれ移していく。母と彼女の息はぴたりとあっていた。
「母ちゃん、姉ちゃん…」その部屋の出入り口からまだ幼さの残る声がした。その若い声は琉台より二つ下の弟、静(せい)から発せられたものだった。「ご飯、まだ?」
   手を動かしたまま、母はすかさず静に応える。「もうすぐだから、あんたもちょっとは身支度、手伝いなさい」
   琉台は手を少し休め静の方へ顔を向け、母の言葉を引き継ぐ。「聖台兄さんと文台兄さんに『ご飯、できた』って起こしてきて」
「うん、わかった」と寝ぼけ眼の静は応えた。
「あ、静ちゃん、ちょっと待って」と琉台は静を引き留めた。「そういや、父さん、昨夜遅くに帰ってるから、父さんも起こしてきて」
「え、父さん、帰ってきてるの?」静は目を輝かせた。「それじゃ、朝飯のときに父さんから旅先の話がきけるね!」
   そう声をはずませて、静はかけていった。


   孫家の朝は床を六つ丸くならべて食事をとることから活気づく。それらの六つの床には父、母、琉台、静、文台、聖台の順で左回りに輪になって座っている。そして父の号令ではじめて家族は箸をつける。父が出張などで不在の時は長男の聖台が代わって号令をかける。食事の準備を終わらせた琉台がやっと一息つけるときだ。
「父さん、今度はどこ行って来たの?   聴かせてよ」静はあふれんばかりの好奇心をかくそうとはせず率直に話をきりだした。
「お、静。そんなに聴きたいか。そうかそうか」と父は静の期待で顔をくずして喜んだ。「今回、行ったところは永興って街だ」
「永興っていえば浙江沿いの県城(まち)でここから下流にあるところだね」聖台は父の言葉を引き継いだ。「確か、隣の郡にある街だったね」
「そのとおりだ…しかも単に行っただけじゃないぞ」父は注意を引くためにわざと一呼吸おいた。「なんと、そこの県府(やくしょ)に呼ばれたんだ…我が孫家食品店から食糧を買うためにだ…ここから百里もゆうに越える永興からわざわざだぞ」
「へぇー、いよいようちの商売も隣の郡まで進出するんだ……」今度は文台が発言した。そのすぐあと、父以外の家族みなが感心の声をあげる。孫家のさらなる輝かしい未来をそこにいるみんなが垣間見ている。静にいたっては目を輝かせ興奮で顔を紅潮させている。それら家族の様子に父は満足げな表情を浮かべる。文台はさらに場を盛り上げようとする。「その永興って県城にも食品売ってるところってあるんだろ?   なぜ、わざわざうちに頼んだんだろ?」
「それはだなー、なぜか、そこの県府も店も食糧が不足してたんだ。それで県府がほしがっていた大量の食糧をとりそろえられえる商店は、我が孫家食品店しかないって理屈だ!」父は待ってましたとばかりに興奮気味にこたえた。「文台は県吏(やくにん)なんかやってんのに、なかなか鋭いな、商売のことに」
「ええ、俺は県吏やってるけど、やっぱり家の商売は大事だからなぁ」と文台。
   上機嫌の父に笑顔を絶やさない文台。何気ない親子の会話なのだが、琉台の耳には不自然にきこえていた。それは県吏という職業をむげにされたのに文台は怒るどころか笑顔のままだからだ。家族がそろうときは言わないまでも文台が自分の仕事を楽しげにそして誇らしげに話しているのを彼女は何回も目の当たりにしている。彼女は思う、文台兄さんは何か無理をしてるのではないか、と。
「あはは、そうだろう、そうだろう、孫家の商売はこれからもっともっと忙しくなるぞ」父の声はますます調子づいていた。「そうなりゃ、聖台にも静にも母さんにも琉台にもがんばってもらわないとな……あ、そのとき、わしは家でゆっくりさせてもらうよ」
   父の冗談でその場が笑い声でつつまれた。文台も声を出して笑っている。琉台は父の無神経な一言を聞き逃さなかった。彼女はじれったく思っている。父が文台兄さんの名前を言わず、半ば商売話の仲間はずれにしているのになぜ笑っていられるの、と。
   琉台にとって、二年ほど前、文台が伸び盛りにあった孫家の商売に手をださずに県吏になったことはとても不思議なことだった。その反面、孫家の人間だったら商人になるのが当たり前だという暗黙の了解を自分の夢のため真っ向からくつがえした文台を彼女は尊敬している。それに、同じ兄でも文台兄さんは聖台兄さんのように人の顔色をうかがうようなところがなく堂々として、それでいて人当たりがとても良く心がひろい、と彼女は文台をそう評していた。そんな彼女の兄、文台が商人の道を歩まなかった負い目のためだろうか、父の失礼な発言に終始ほがらかでいることは、彼女にとって不満でしょうがなかった。
   父は琉台のむすっとしている様子に気付く。「琉台、どうかしたのか?」
   琉台はあわてて、自分の気持ちをさとられまいと、考えごとをしていたことにする。「え……あ、でも、なんで永興は食糧不足だったんでしょうね?   会稽郡は今年、凶作だったとか聞いたことないし。そんな中でなんでそこの役所は大量に食糧をほしがってたのかなぁ?   それにとなりの郡の人がわざわざここまで来るってことは、となりの郡全体が食糧不足ってことだし何だかとても変…」
   先ほどまで笑い声につつまれていたのが琉台の疑問で静かになった。言われてみれば、と家族全員が考え込んでしまったからだ。あちゃー、やってしまった、と彼女は家族の和気藹々とした雰囲気に水を差したことを少し後悔した。
「あ、そうだ、父さん」しずまった空気ではじめに声を出したのは母だった。「もう行かないといけないんじゃない?   今日は余抗の街へ仕入れに行くって言ってたでしょ」
「お、そうだそうだ、のんびりしてる場合じゃないな」
   そう言うと父はほとんど手つかずの朝食をご飯だけ、がつがつと口に放り込み、その場から立ち上がった。
「えー、もういっちゃうのー」静は不満をあらわにした。
「うごが……悪い悪い」父は口にものをいれたまましゃべっていた。何とか口の中を整理し再び話し始めた。「うーん、そうだな……あ、静には今日、話せなかったことを書簡にして送ってやるよ」
「うーん、今、聞きたいけど……それで我慢するよ」
「よし、そういうことだな」
   相変わらず家庭や行儀より商売を優先する父は、静を納得させるとそのまま振り返りもせずあわてて外へとびでていった。
   ふと、琉台は永興の街一帯での食糧不足にとても嫌な予感がした。しかし、彼女はその予感を取り越し苦労と決めつけ心の隅においやり、目の前にある残りの朝食に箸をつけようとしていた。