馬上の少年   〇三
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<<〇二


   男の目には、店先から右手に見える空が少し赤みかかっているのがうつっていた。男はそれを意識すると店に面した通りをきょろきょろと見渡した。男は、一瞬、顔をしかめたかと思うとすぐに顔の緊張をほぐし、後ろにある店の食品を確認し始めた。店に陳列した何十種類ものある、干物や果物などの食品を男はせわしなく点検し、時にはその一つを手にとって鋭い眼差しを向けていた。
   男の名前は孫聖台。孫家の長男である。今年で二〇歳になる。
   今日は聖台の父親が十数日かけた出張から帰ってくる日である。それに合わせて、今日、彼は一日中、店番をしていた。
   近頃、聖台は父から家業をおろそかにしていると思われるのを恐れていた。そのため、姑息なやり方だと思いながら、自分の父に自分が働いている姿を見せたいと彼は画策している。彼が働いている姿をより印象づけるため、他の店員には奥にある倉で別の仕事をしてもらっている。
   聖台があれこれ思いをめぐらしてると、彼は右の方に人の気配を感じた。彼は反射的に気配のある方へ振り向こうとしたが、とっさに気配を感じていない振りをして店の食品の点検を続ける。表には現れてないが、彼にはその時、確かに緊張していた。
   聖台にはその気配がよりはっきりと感じられるようになっていた。彼の予感は確信に変わっている。
「店番、がんばってるなぁ」
   と、聖台の視野の外から声がした。彼は予定通りそちらの方へ振り向く。
「あー、父さん、お帰り……」と、聖台は声の主に返事をした。しかし、その声の主は彼の予想とは違った人であった。「なんだ、文台じゃないか、驚かせやがって。本当に最近、おまえの声、父さんに似てきたぞ」
   声の主は聖台の父ではなく、年が四つ離れた弟の文台であった。文台の何気ない一言が聖台を意外と驚かせてしまったことに、文台は少したじろいだ。しかし、すぐに口を開く。「ははは、『ただいま』が先だった?」
   そんな聖台と文台のやりとりに店の奥からかけつけた少女が一人。「文台兄さん、お帰り」
「お、ただいま」文台はその少女の方を向く。「琉台(るだい)、今日はなんで店先に立ってないんだ?   久々に早く帰ってきたらから、おまえの看板娘っぷりを見られると思ったんだけど。ほら、近頃、それが街で評判で……」
   文台から琉台と呼ばれるその少女は、孫家の長女で聖台と文台の妹にあたる。文台はよほど自分の妹が街で話題にのぼっていたのが嬉しかったのか、そのことを満面の笑みで矢継ぎ早に話していた。文台とは対照的に琉台は眉をひそめていた。彼女は事情の知らない文台に話をするべきかどうか迷っていた。やがて彼女は思惑を巡らしながらゆっくりと声を出す。「え、文台兄さん…私が店番してないのはね…」
「そ、そうだ、文台」文台の隣にいた聖台はうわずった声を出した。彼は妹の琉台に自分の立場を仕方なく話したが、弟の文台にまでは知られたくなかった。やがて文台は再び彼の方へ向く。彼はそれを確認し一呼吸をおいて話し始める。「こんな早く帰ってきたってことは、馬の仕事があったんだろ?   どうだったんだっ?」
「どうって…」文台は聖台が急に話題を変えたのをいぶかしく思ったがそのまま話を合わせる。「いつもの伝馬とかわらないよ」
「ほ、ほら、あれだ……」聖台はなんとか話を文台の仕事にもっていこうとした。彼は妹の琉台に意味深な視線をちらりと送る。「最近、寒くなっただろ?   それで馬に乗るのもたいへんだろうなぁって思ったんだ」
   二人のやりとりをどぎまぎしながら見守っていた琉台は聖台の合図にぎこちなく呼応する。「そうそう、よくこんな寒い日に乗れるなぁって、さっき、みんなで話してたのよ」と彼女は聖台と口裏を合わせた。「きっと、文台兄さんならではの工夫があるんだなぁって」
   琉台の言葉をきいて文台の顔には照れからくる笑みをこぼれていた。「いや別に工夫ってのがあるわけじゃなくて乗馬って結構、汗かくことなんだ。馬に乗るときは、こう、両足で馬の背中をはさんで……」
「えー、文台」聖台は文台の話をさえぎった。「どうだ、飯を食べながらその話をゆっくりするってのは?   ちょうど母さんが飯をつくったころだろうし……もうすぐ店、閉めるから、俺も後でゆっくりその話を聞かせてくれ」
「そうだね、もう腹ぺこだし…」
   文台はゆっくりと頼りない足取りで店の奥へと向かった。琉台もそれに先んじて店の奥へと姿を消した。聖台は安堵の表情をうかべていた。
「あ、そうだ、兄貴…」と文台は急に聖台の方へ振り向いた。「琉台の店番をみたかったけど、兄貴の店番もなかなか様になってたよ……あ、父さんにも見せないとね」
   聖台は文台の最後の一言で胸の鼓動の高鳴りを感じるようになっていた。文台はもしや俺が普段、家業をおろそかにしていることを知っているのか、と彼は強く感じている。その動揺を文台に悟られないように彼は必死に表情をつくろっていた。だが、彼の努力より動揺の方が勝ってしまったようで、そんな彼の様子を文台は気にかけていたようだった。
「あ、心配しなくていいよ」文台は優しげな目を聖台に向けた。「親父には言わないから……」
   それを聞いて聖台の心は安心するよりさらに混乱していた。「い、言わないって、何のことだ?」
「何があったか知らないけど、俺は兄貴を信じているから……」と文台は小声ではあるがゆっくりと聖台にあたたかく告げた。
   聖台は文台に本当のことを言えないもどかしさと文台から信頼されてるという感動とが入り交じった複雑な表情をうかべていた。
   やがて聖台は文台にゆっくりとうなづいてみせた。