馬上の少年   〇五
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   朝から県長に呼ばれ何ごとかと不安だった孫文台だが、県長の部屋を出るころには上機嫌だった。早速、別室で身仕度をすませた後、廊下をそそくさと歩いている。そうすると、彼の目に前から向かってくる同僚の徐子直の姿がうつる。
「なんだ、文台、袴褶(こしゅう)に着替えて……」と子直の第一声。「まさか今日も伝馬の仕事なのか?」
   文台の伝馬は通常、一ヶ月に数回程度であり、連日行われることは今までなかったので、子直はいぶかしげに思っていた。
「あー、そうなんだ」袴褶姿の文台は困った顔をしていたが声は嬉々としていた。「昨日、余抗の県(まち)から持ってきた書簡が実は緊急を要するものだったらしくて、すぐに銭唐にそれに関係する書簡を持っていかないといけないんだ」
   書簡の内容はそれを届ける文台には明かされないことになっている。そのため、子直に文台は今から銭唐の県へ行くというわかることだけを告げた。
「へぇー、おまえもたいへんだなぁ。こんな寒い中、県長のお使いなんて」
「なーに、たまにはこういうこともあるってことだ。寒さも子直が思っているほどじゃないぞ。逆に風が気持ちいいくらいだ……あ、急ぐから、じゃ、また」
   文台は子直を背に廊下を進もうとした。
「あ、文台」子直はすれ違ったすぐ後に文台を呼び止めた。「おまえ、鉄刀(鉄製の刀)を持っているけど、それどうするんだ?」
   子直が指さす先には、文台が左手にもつ、鞘に納められた鉄刀があった。伝馬の仕事にはとても不自然なものであった。
「あ、これか?」振り返った文台は鉄刀を前に出し右手で指さした。「県長が持って行けって言うんだ」
「は?   何でそんなもん、持ってくんだ?」
   子直は怪訝な表情を浮かべた。ただの伝馬の仕事に武器が不必要なことは明確だ。
「さぁ…俺が何故って県長に訊いたら、『まぁ、お守りと思って持って行け』って言うんだよ」
   文台は県長の口まねを織り交ぜて子直に説明した。
「はぁ〜?   何だそれ?   さっぱりわからんなぁ」
「そうなんだ、何のことかさっぱり…」
   二人はしばらく考え込んでいたが、すぐに真相を推測することをあきらめ、軽い別れの言葉を交わしながらそれぞれの任務へと向かった。もちろん、文台の足は厩へと向いていた。

   厩に到着すると文台は愛馬、光に軽く挨拶する。すぐに彼は光を厩から出し、光の背に飛び乗り、通りを東へと駆けだした。

   乗り始めは流石の文台でも冬の冷たい空気が体にしみる。やがて体がほてってきて心地よい空気へと変わることを彼は疑わなかった。
   通りを駆ける文台の目にうつる通行人すべてはこちらを振り向く。それが子供だと声をあげて喜んでいる。無理もない、まだこのあたりでは乗馬の姿が珍しいんだ、と文台は思う。二年ほど前に初めて伝馬の仕事をしたとき、彼は自分の乗馬に自信がなかったので、通行人の目を引くのがたまらなく嫌だった。だが現在では県の人々から乗馬で注目の的になることはむしろ誇りに思えるようになっていた。
   やがて文台と光は県の東の端へと近づいていた。そこには道沿いに墓地があり孫家の墓もある。彼が生まれたころ、この墓の上が輝くといった奇妙なことがあったらしい。彼にはそれが本当かどうか確信が持てなかったが、そのことがきっかけでこの墓地が富春の人の憩いの場となっていることは確かだった。
   文台の目にその憩いの場がうつる。そして彼はそこに二つの人影を確認する。彼と光が墓地に近づくにつれて、その人物の姿がはっきりとわかるようになる。
「あっ」
   文台は思わず声を出す。彼が見たのは見慣れぬ女性と見慣れた男性。その見慣れた男性とは、彼の兄、孫聖台であった。彼は一瞬、見過ごしたふりをして通り過ぎようと思ったが、まともに二人と目が合ってしまい、近づくほかなかった。
   文台は光から降りて、二人のもとへかけよる。
「ぶ、文台」聖台は明らかに驚いた声をだしていた。「お、おまえ、昨日、伝馬の仕事だったから、今日は県府(やくしょ)での仕事じゃないのか?」
   文台はあまりにも動揺した兄、聖台を目の当たりにしてどう対応してよいかとても困った。その聖台とは対照的に隣の女性は落ち着いた様子。文台はとりあえず聖台の質問に答えておこうと思った。「今日は急な用で銭唐の県まで書類を届けに行くことになったんだ」
「あ、そうか」突然、聖台の隣にいる女性は声をだした。「彼が聖台ちゃんの弟さんね。急に県吏(やくにん)らしい人が来るから何が起こったかと思ったわよ」
   その女性の声をきいて、いっそうあたふたする聖台。言葉にならない言葉を発している。そんな聖台と隣の女性を見て文台には何となく事情がのみこめてきた。
「あ、はじめまして」このままでは埒があかないと文台は判断した。「俺、文台っていいます。孫聖台の弟です。見ての通り、県府の人間です」
「あ、文台さんね。聖台ちゃんからよく話にききます…」その女性は文台にほほえんだ。「はじめまして、全朱夏です…」
   朱夏と名乗る女性は文台に挨拶をした後、視線をそらし少し考えごとをした。そして意を決したようにまた文台と目を合わせ何かを告げようとする。
「もうすぐで孫家のお屋敷に住むことになるんで、そのときはよろしくね」
   朱夏の言葉をきいて今度は文台が驚く番だった。今までの様子からだとこの朱夏という人は聖台兄貴の嫁になるということなのか、と彼は思った。彼は今までそういった聖台の話をまったく聞いたことがない。一方、聖台はこれ以上ないほど慌てふためいていた。そんな聖台の方へ朱夏は視線をうつす。
「もう決まったことでしょ?」と朱夏は聖台に言葉を投げかけた。「さっき、結婚するって言ったじゃない」
「し、しかし、孫家には孫家の事情ってもんがあるんだ」聖台は顔を紅潮させ声を荒げた。「まだ、孫家と事をおこすのは早い、早すぎるんだ!」
「あら、あなた、いつも話してたじゃない。文台さんは人の気持ちのわかる心の優しい人だって」朱夏は落ち着いてはいるが一語一語はっきりとしていた。「文台さんならきっと私たちの味方になってくれるわ」
   文台の目の当たりで起こっている二人のやりとりに彼の理解が追いつかなくなっていた。彼自身が今すべきことは目の前の言い合いを止めてでも事実関係をはっきりさせることだ。
「ちょっと待って」と文台は二人に注意をうながした。「誰も二人の結婚なんて反対してないんでしょ?」
「文台、おまえには知らされてないだろうがな…」聖台は興奮したまま文台に応じた。「父に一度、結婚したいってうち明けたんだが、頭ごなしに否定された」
   文台は驚き、声を出すことも相づちを打つこともできなかった。聖台は深呼吸をしてから覚悟を決め話を続ける。
「一年半ぐらい前から数ヶ月に一回ぐらい父からお見合いの話があった。全部、取引先の高位にある官吏の娘か別の県の富豪の娘とかでね」少し落ち着きを取り戻した聖台は自嘲気味に笑う。「でも、俺には当時から朱夏がいたんだ。父さんにあっさり否定されるとわかってたからそれまで言わなかったんだけど、一ヶ月ぐらい前、否定されるのを覚悟で父さんに思い切って朱夏のことを言ったら『そんな孫家に関係のない結婚は許さん』って言われたよ…」
   聖台は落胆の表情をあらわにしていた。それを見て朱夏の目は潤んでいた。文台はこんな激しい感情をみせる聖台を初めてみた。そして、文台は頭の中で物事を整理していた。
   なるほど、と彼は思う。近頃、聖台兄貴が家業をおろそかにしているのは、親父に隠れて朱夏さんに会っているからだと。彼は頭を切り換える。問題はこれからどうするかだ、と。彼は聖台の重い苦難を救ってやりたかった。彼は考えをあれこれ巡らす。そして決然とした表情で口を開く。
「大丈夫だ、兄貴」文台の声は力強さをおびていた。「俺、琉台、おふくろ…それに静もいれて、家族みんなで親父を説得すれば、大丈夫だ」
   思いがけない文台の言葉に聖台は落胆の表情を変えなかったが、朱夏は目をこすった後、明るい表情を文台に向けていた。
「ありがとう、文台さん。とても心強いわ」朱夏は明るく文台に礼を言い、そばの聖台に元気良く振り向いた。「ほら、大丈夫だって言ってるじゃない。まだ希望あるよ。もう一度、義父さんにあたるべきよ」
「そうだな…」聖台の顔がすこしほぐれた。「ここで悩んでいるより行動あるのみだ」
   そして、聖台と朱夏、二人は微笑み合った。その笑顔は二人とも意を決した証拠だ。そこには悲壮なものはすでになかった。文台はもう大丈夫だと思った。二人が仲違いせずその気になれば。
「じゃ、仕事の途中なんで、悪いけど」文台は安心して見切りをつけた。二人はおだやかにうなづく。文台はそれを視認すると、光にまたがった。「えっと、兄貴…それから朱夏義姉さん、これにて失礼」
   文台は少しはにかみながら手を振って別れを告げた。二人も彼と同じようにして手を振り応じた。
   文台は再び光を駆けさせた。気付くともう富春の県城は背中の向こう側だった。
「さて、二人はあれで良いとして…次は俺だ」と文台は独り言をつぶやいた。彼は考えを巡らすと声を出しているかどうかに気が回らない方だ。「本当に親父にこの俺が面と向かえることができるのかどうか…」
   文台は記憶をたどる。彼は父以外の家族や親族からもそして近所からも、二年前、あの頑固な父の反対を押し切り県吏になったと思われている。しかし、真実は違った。彼は逃げたのだ。
   二年ほど前、文台は家族の誰にも言わず県吏の試験を受け合格し、県吏になった。そういった既成事実をつくってから彼は家族に告げた。そんな彼のことを聞いても父は怒るどころか一言も触れなかった。それが返って今まで二年足らず彼を苦しめることになる。言うなれば、文台は孫家で二年もの間、生殺しの状態だった。
   伝馬の仕事から戻ると、事を起こさなければならない、と文台はそう思うと気持ちがだんだんと重くなってきていた。また、彼は聖台ととりかわした軽はずみな約束を少し後悔していた。彼はふと先ほど聖台がいった言葉を思い出す。そう、その気概だ。
「ここで悩んでいるより行動あるのみだ」
   文台はそう自分に言い聞かせながら、父のことは心の片隅に追いやった。今は伝馬の仕事に集中すべきなのに、と彼は思う。一つのことを追いやるとまた別のことが彼の心にやって来る。事の発端をおこした彼の兄のことである。
   文台は幼きころから四つ年上の聖台のことがよく見えていた。文台とは違い、聖台は昔から父の期待を一身に受け、それに応えるようにとても真面目で従順な性格であり続けた。そんな聖台の色恋沙汰なんて彼は今まで聞いたことなんてなく、逆にそんな聖台のことを気にかけていたぐらいだ。彼は男女のことなんて想像はするもののまったく実感がなかったが、あの真面目な兄が父に逆らい熱くなれることがあるのは彼にとってほほえましいことであった。
「あの兄貴がねぇ……」
   文台はくすりと笑い、少しの違和感と少しの幸福感を胸に抱き大地を駆けていった。