2010年6月の日記:[以前の日記]
 
 
6月27日(日)
 
 
選択範囲のデータ

必要な原稿用紙の枚数 : 20 枚
20 枚目の使用行数 : 9 行


> あと[シ豕]令になったのは熹平五年ってことでそれ以前に鮮卑と戦ったというと、

↑これあからさまな読み違え。寝ぼけていたのだろうか(汗)

[シ豕]見齊王紀
嘉平五年

と書いてあった。
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6月14日(月)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 10 枚
10 枚目の使用行数 : 3 行

説明臭い部分を抜くと、短く進んでいくんで、何か抜けている重要部分がないか気になってなかなか進まないな。
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6月10日(木)
 
 
選択範囲のデータ

必要な原稿用紙の枚数 : 5 枚
5 枚目の使用行数 : 3 行

前回、書いたとおりのことが今回の技法上の目標で、それをやっていると、やはり私は理屈ばかり書いてしまい、削除するにいたることがあった。早い目にこの目標を思い付いて良かった。
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6月6日(日)
 
 
選択範囲のデータ

必要な原稿用紙の枚数 : 2 枚
2 枚目の使用行数 : 4 行

説明より描写を!
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6月3日(木)
 
 
界橋の戦い(孫氏からみた三国志54)
↑というわけで書き終える。
「孫氏からみた三国志」では公孫伯珪の若いときに触れていないので、別途、訳していく必要がある。
『三国志集解』をざっとみると、伝の冒頭で劉寛の碑陰に公孫伯珪の名が見えるという記述があって、まさか門生じゃないだろうし、故吏だったことあったかな、と思っていて、先を読むと門生である可能性が示唆されていた。盧植と合わせ、師が二人いるパターンがあるのかな。だとすると傅燮とも同門ってことになる。その碑陰によると、字は「伯珪」ではなく「伯圭」となっているそうな。言われてみれば、「圭」でも玉の意味があるんで、名の[王賛]との関係性が崩れていない。
あと[シ豕]令になったのは熹平五年ってことでそれ以前に鮮卑と戦ったというと、
舞台はひとまず北へ(孫氏からみた三国志12)
↑ここを参照にすると、熹平二年(紀元173年)十二月の「鮮卑寇幽并二州」あたりかな。

やはり辺郡となると「車父」とか「戍卒」とかの概念を入れていきたいので、論文を読んだときのメモも残していきたいところ。
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