2008年7月の日記:[以前の日記]
 
 
7月29日(火)
 
 
第2回三国志祭(三国志コレクション)
↑やはりイベント後というのはそのレポも書くこともあってか時間をとられるな。
次のイベントではしばらくレポを控え執筆に集中しよう。。。
1217336778.jpeg 第2回三国志祭(三国志コレクション)の会場にあった撮影コーナー。五百円也。


・全体
必要な原稿用紙の枚数 : 143 枚
143 枚目の使用行数 : 10 行

・現在位置
必要な原稿用紙の枚数 : 84 枚
84 枚目の使用行数 : 18 行

というわけで全然進んでいない上にすでに目を通した部分で追加することが増える。
『魏晋南北朝壁画墓の世界』P30以降を読んでいて気付いたんだけど、『後漢書』西羌伝にある、

建武九年(33)、隗囂死、司徒掾班彪上言:「今涼州部皆有降羌、羌胡被髮左衽、而與漢人雜處、習俗既異、言語不通、數為小吏黠人所見侵奪、窮恚無聊、故致反叛。夫蠻夷寇亂、皆為此也。舊制益州部置蠻夷騎都尉、幽州部置領烏桓校尉、涼州部置護羌校尉、皆持節領護、理其怨結、歳時循行、問所疾苦。又數遣使驛通動靜、使塞外羌夷為吏耳目、州郡因此可得[イ敬]備。今宜復如舊、以明威防。」

というような漢人と降羌との関わりを示す箇所がまるっと抜けている。
皇甫嵩と傅燮の会合のシーンに入れ込まないとね。
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7月26日(土)
 
 
・全体
必要な原稿用紙の枚数 : 139 枚
139 枚目の使用行数 : 13 行

・現在位置
必要な原稿用紙の枚数 : 80 枚
80 枚目の使用行数 : 13 行

物語中、傅燮が護軍司馬になったけど、まだ京師から南下していない。

七月中には全体の枚数を150枚にしたいところだね。
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7月24日(木)
 
 
昨日のレイトショーで『崖の上のポニョ』を見に行く。
見る前から「『ファインディング・ニモ』の方が面白かった」と捨てセリフを用意していたものの、見終わるとそのセリフを使わなくて良かったようだ。
あの陰影のないベタな配色と枠線には少々、面食らったが、それは絵本のコンセプトを出す演出なんだな、と。
あとポニョのストーカー気質はびびったがジェットコースター的アトラクションのようで面白かった。

さて本題。

・全体
必要な原稿用紙の枚数 : 135 枚
135 枚目の使用行数 : 18 行

・現在位置
必要な原稿用紙の枚数 : 68 枚
68 枚目の使用行数 : 11 行

物語上、光和七年三月に京師で傅燮が皇甫嵩とあっているところ。
以前、書いた黄巾小説と絶賛、融合中。
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7月21日(月)
 
 
・全体
必要な原稿用紙の枚数 : 125 枚
125 枚目の使用行数 : 14 行

・現在位置
必要な原稿用紙の枚数 : 57 枚
57 枚目の使用行数 : 19 行

馬元義の計画が発覚して、その話が傅燮のところへ届いたところ。
どうにも理屈っぽいなぁ。
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7月20日(日)
 
 
・全体
必要な原稿用紙の枚数 : 121 枚
121 枚目の使用行数 : 3 行

・現在位置
必要な原稿用紙の枚数 : 52 枚
52 枚目の使用行数 : 11 行

物語中、傅燮と皇甫嵩の対面のシーンをチェックし、いよいよ黄巾の乱が起こる光和七年突入。

今年の一月に書いた黄巾関連の小説からあれこれ切り張りし、全体の枚数を増やす予定。
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7月19日(土)
 
 
京都祇園祭山鉾巡行に孟宗山(7月17日)
↑ここにあるように山鉾巡行へ行ったんだけど、それも含め、すっかり暑さにやられている感じだね。
大して疲れることしていないはずなのに、なんだかすぐ眠くなる感じ。
あまり進んでいない。
この三連休でばしばし進めたいところ。


・全体
必要な原稿用紙の枚数 : 120 枚
120 枚目の使用行数 : 1 行

・現在位置
必要な原稿用紙の枚数 : 39 枚
39 枚目の使用行数 : 1 行

物語中、現在、傅燮は喪明けで黄巾の乱が起こる前年でいよいよ皇甫嵩との邂逅。
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7月15日(火)
 
 
日曜日に図書館行ってきて、対して読み込めないだろうと思いながらも池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)の別冊以外の全四巻を借りてくる。
その後、『後漢書集解』を読んでいたんだけど、結構、実りが多かった。但し、そういった実りは小説の文量に比例しないんだけどね。

メモ:東漢人多為舉主行喪制服
↑そのときの話を三国志ニュースにまとめてみる。

元の傅燮小説では特に根拠なく三年ってことはないから九ヶ月ぐらいだろう、ってしていたけど、今回は三年に修正(といっても実質の二十七ヶ月にしているが)

・全体
必要な原稿用紙の枚数 : 115 枚
115 枚目の使用行数 : 9 行

・現在位置
必要な原稿用紙の枚数 : 34 枚
34 枚目の使用行数 : 6 行

というわけで今、傅燮が挙主の喪に服し劉獅フ元を離れるところ。
祇園祭や蒸し暑さの影響で大して進んでないが(汗)
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7月12日(土)
 
 
・全体
必要な原稿用紙の枚数 : 113 枚
113 枚目の使用行数 : 11 行

・現在位置
必要な原稿用紙の枚数 : 32 枚
32 枚目の使用行数 : 1 行

元の傅燮小説では、184年以前に張角について楊賜が気付いていたことについては地の文で触れる程度だったけど、今回は劉獅フ口を介し傅燮へ伝聞するという形で広げている。
いよいよ動乱の影が忍び寄っているが、黄巾はこの小説のメインテーマという訳じゃないんだけどね。
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7月10日(木)
 
 
・全体
必要な原稿用紙の枚数 : 110 枚
110 枚目の使用行数 : 14 行

・現在位置
必要な原稿用紙の枚数 : 27 枚
27 枚目の使用行数 : 18 行


傅燮小説。
光和二年、劉獅ェ二回目の太尉になったところ。
しかし、ここらへんの歴史トピックスといえばあまりないので、スカスカな感じで、読者を引き付けている自信がまったくないな(汗)
これが光和七年の黄巾の乱ともなると一気に濃密になるんだけど、そこまで早く到達したいところ
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7月6日(日)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 104 枚
104 枚目の使用行数 : 5 行

初めから読んで添削し、描写をはしょっているところは新たに書き直している。

そこで重大な勘違い発見!
白珪(白圭)を人名と思っていたけど、今、『後漢書』(中華書局)を見ると白珪のところに人名を意味する線が引かれてない(汗)

涼州の将と良い宦官・悪い宦官(孫氏からみた三国志18
↑というわけで五年も前のページに訂正を入れる。
というか、ここは同人誌にもした部分だからそれは訂正が効かないな(汗)
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7月1日(火)
 
 
必要な原稿用紙の枚数 : 99 枚
99 枚目の使用行数 : 16 行

南容小説執筆開始。
もちろん、一日でこんなに書いたわけじゃなくて、去年書いた分の引き継ぎ。
あと二ヶ月でこれを200枚以上にしてなおかつ話として面白いものになろうだろうか。。。
手始めに過去の日記等を読み直し、傅燮小説に関するメモを集めてみた。
というわけで下記にコピペ

・南容小説。暗示させるような風景描写を入れ込む(夏小正を参考に)。
・「実際のところ、御前では姓名呼びなのかね? 数当たらないとわかんないね。」
・黄巾小説との逆輸入。


というかこの本、羌族のことが画像付きで書かれているんで、南容小説を書き終える前に読んでおけばよかったと後悔。
二股の髪型に、燕尾服のように鶏の羽がついた服は創作のスパイスとしてステキだなぁ。
あと中央アジア系とのこと。鼻が高く顎が大きい。


小説中、劉試囎カ饒の廟と墓が洛陽内外に位置していた。
それを出身地の弘農郡華陰県に書き替えたい(洛陽より西に二百キロ。そのため南容の道程も変えないと)


傅燮が安定都尉を辞めたのは後漢書傅燮伝に「以疾免。」とあるように病気で辞めたんだけど、小説では師匠の劉獅ェ亡くなったことを理由にした。
こういう師匠が亡くなって辞める、という事例は私の狭い見識にはなかったんだけど、三国志蜀書劉焉伝を見ていたら「後以師祝公喪去官」とでてきて、劉焉がまさしくこの事例に当てはまる人物だったんだね。


※どうも南容の故事を微妙に本質への理解を外していたのでメモ
・衛将軍文子 第六十
その詩をきくときには、白圭のかけている詩を一日に三たび繰り返して言い、あやまちやしくじりを犯すことのないように言語をつつしんで行動している。
白圭之[王占] かけるときは磨くがごとく


礼記 檀弓上第三
三日目に殯(仮埋葬)、三ヶ月目に葬る


「歩くと佩玉は衝牙と当たって音が鳴ること」

今、郷飲酒義のところ。
それを読むと、北が上とすると、

  賓  [イ巽]

  介  主

という堂上の配置になる。
賓が賓客、介が賓の介添人。
主が主人で、[イ巽]が主の介添人。


「唐突に出てくる傅幹もちゃんと登場するよう描きなおしたいね。」

・「後漢代の司徒府の堂は「百官朝会の殿」と言われ、天子の臨席のもとに…」(P.217) 朝会がどこで行われていたことも前々からの疑問だったけど、この記述であっさり解決。というかこの論拠となる注釈をみると、『周礼』地官[高/木]人鄭注から記述をひっぱってきており、そこらへんの手法にも素人目ながら感動した。
(※というと、もしかすると司徒府の延で傅南容は「斬司徒、天下乃安。」と言ったのかな)


長者:目上の人全体
先生:目上でもあり年長でもあって、実際生活上または学問・技術の上で、教えを受けることの多い人。
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