2008年4月の日記:[以前の日記]
 
 
4月28日(月)
 
 
孫氏からみた三国志
↑小説に使うところは一通り進めた。
どうせ書きながら調べないといけないんだけど。
あと5月1日の執筆スタートまで『礼記』を読むのも進めたいところだね。

物語の力を信じ粛々と作業したいところ。
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4月24日(木)
 
 
初平元年二年あたりを『三国志』と『後漢書』で見ているけど、出来事の順序が違っていたり、記述が錯綜しているな。

とりあえず、劉虞を帝にしようとした出来事を『後漢書』劉虞伝に準じ初平二年ということで進めよう。

追記。
迷っていたのは劉虞を帝にしようとしたことと胡母班が王匡に殺されたことの順序。
『三国志』魏書袁紹伝では劉虞を帝にしようとしたこと→胡母班が殺されるという順序。
しかし、『後漢書』劉虞伝によると帝にしようとしたことは初平二年で、『後漢書』本紀では胡母班が殺されたのは初平元年。

それでこの反することを解消するのに何か手掛かりがないかみていると『三国志』魏書袁紹伝(あるいは『後漢書』袁紹伝)の注に引く謝承『後漢書』の記述を見かける。
そこには胡母班の書があって、そこには三年七月八月以降(『後漢書』本紀)の官職が載っている。
つまりは胡母班が捕まったのが初平元年で殺されたのは初平三年とすれば良いのかな、と。
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4月20日(日)
 
 
いろいろ訳して、「孫氏からみた三国志」の文を構築していたらはたと気付いた。
すっかり『後漢書』劉表伝と『三国志』魏書劉表伝についてノーマークだったことに。
さてまた粛々と訳すか。
結構なロスだね、時間的にというより、気分的に。
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4月13日(日)
 
 
訂正

>明日は蹇碩の忌日。こちらも三国志ニュースに入れるかな。

と今、見直したら、四月二十五日が蹇碩の忌日だね。
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4月12日(土)
 
 
昨日が後漢の霊帝の忌日だからというわけじゃないが、「孫氏からみた三国志」更新。

相国の董卓と関東諸将(孫氏からみた三国志46)

最近はまさに小説の自分用資料なので、ホントにただ史書から抜き出して訳してならべているだけだね。
それを読んで、自然と浮かんでくる空想やら妄想やらの類は小説にぶつけていきたいところ。
まだ訳したのはたくさんあるので、さっさと終わらせて小説執筆に移りたいところだね。
予定では昨年と同じく6月下旬に50枚程度、8月下旬に200枚程度と思っていたけど、12月下旬の300枚程度に興味が出たので、8月下旬のはスルーしようかと思っている。

「孫氏からみた三国志」のお次は董卓による長安への遷都議案。

それと、後漢の霊帝の忌日のことは昨日、三国志ニュースに書いた。

4月11日は霊帝崩御の日

明日は蹇碩の忌日。こちらも三国志ニュースに入れるかな。
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4月1日(火)
 
 
『三国志』魏書袁紹伝の注に引く『謝承後漢書』にある胡母班のセリフを見て。

まさかと思ったら一人称が「僕」だった。ちなみに二人称は「足下」。書の中の人称。相手は王匡。
胡母班、王匡の妹の夫。立場的には義理の兄弟だけど当人の感覚的にどうなんやろね。
あとあの世のところで「皇天」って出てきた。これは場所ととらえるか人格的なものととらえるか。。。

あと同伝の注に引く『英雄記』の麹義のでるところ。
なんで急にあんなに戦闘描写がでてくんだ?!
あれこれ当時の戦を想像できてとても有り難い(笑)
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