4月24日(木)
初平元年二年あたりを『三国志』と『後漢書』で見ているけど、出来事の順序が違っていたり、記述が錯綜しているな。
とりあえず、劉虞を帝にしようとした出来事を『後漢書』劉虞伝に準じ初平二年ということで進めよう。
追記。 迷っていたのは劉虞を帝にしようとしたことと胡母班が王匡に殺されたことの順序。 『三国志』魏書袁紹伝では劉虞を帝にしようとしたこと→胡母班が殺されるという順序。 しかし、『後漢書』劉虞伝によると帝にしようとしたことは初平二年で、『後漢書』本紀では胡母班が殺されたのは初平元年。
それでこの反することを解消するのに何か手掛かりがないかみていると『三国志』魏書袁紹伝(あるいは『後漢書』袁紹伝)の注に引く謝承『後漢書』の記述を見かける。 そこには胡母班の書があって、そこには三年七月八月以降(『後漢書』本紀)の官職が載っている。 つまりは胡母班が捕まったのが初平元年で殺されたのは初平三年とすれば良いのかな、と。
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