2008年3月の日記:[以前の日記]
 
 
3月18日(火)
 
 
結局、私が次、書きたいのは、「京師奪還」というタイトルの朱儁主役小説で四百字詰め原稿用紙50枚ぐらいで起承転結のはっきりしたもの。
書きたい気持ちは強くなっているが、ただまだ資料が足りない。
執筆開始時期は五月にずれこみそう。
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3月16日(日)
 
 
明治書院の『礼記』の訳本、中巻を図書館で借りないといけないので、持っている下巻を読んでいる。
今、郷飲酒義のところ。
それを読むと、北が上とすると、

  賓  [イ巽]

  介  主

という堂上の配置になる。
賓が賓客、介が賓の介添人。
主が主人で、[イ巽]が主の介添人。
堂において南に階段があり(アクセスする出入り口があり)、出入り口から遠いところに主客を奥のは現代日本の作法に通じるね。
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3月9日(日)
 
 

「董卓」で検索して見て回ると、『後漢書』張奐伝に董卓がでてくるところを見かける。

(張)奐遣司馬尹端・董卓並撃、大破之、斬其酋豪、首虜萬餘人、三州清定。

董卓って張奐の元で戦っていたんだね。

会稽は傷ついて…
↑ところで董卓と並んで出てきている尹端ってここの尹端と同一人物かね?
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3月3日(月)
 
 
小説のために「孫氏からみた三国志」執筆を進めているけど、そこで前回、入れ忘れていた『後漢書』鄭太伝の箇所を入れる。

「孫氏からみた三国志」前回
↑ここね。

それで気付いたんだけど、私が馴染みのある後漢末、三国を対象とした史書は普通、初めに姓名を出し、その後、名を文中に使って行くんだけど、『後漢書』鄭太伝は何故か字(あざな)を地の文で使っている。
「太」ではなく字(あざな)の「公業」。
何か「太」では紛らわしいとか不都合だという感覚があるのかな?
不思議。
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