メモ1:清と濁の間――銘文と考古資料が語る曹操とその一族(2024年3月11日)

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 2024年3月11日月曜日、朝食をとりそこねて、仕方なく非常食に持っていたカロリーメイトですまし、東京メトロ東西線で竹橋駅へ移動。道しるべを頼りに駅の1b出口から地上に上がる。一橋大学一橋講堂が目的地なんだけど、初めていく場所で適当に歩いていたら案の定迷う。諦めてノートPCを開いて地図を確認。あっさり到達して10時10分。ここの中会議室で第19回京都大学人文科学研究所TOKYO漢籍SEMINAR「清と濁の間――銘文と考古資料が語る曹操とその一族」が開催される。

・京都大学人文科学研究所
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/

・第19回京都大学人文科学研究所TOKYO漢籍SEMINAR『清と濁の間――銘文と考古資料が語る曹操とその一族』
https://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/symposium/tokyo-kanseki-seminar-2024-03-11.html

※関連記事 清と濁の間――銘文と考古資料が語る曹操とその一族(2024年3月11日)

・一橋大学一橋講堂
https://www.hit-u.ac.jp/hall/


 10時30分開始でまだ時間があるので、先人(Xで見かける方だった、というか今見ると三サポ板にも投稿されてた方だ)を見習って入口のポスターを写真撮影。



 事前申込で送られてきた参加証のはがきを見せ、受付をすると茶封筒で今回の資料を渡される。席はどこでもいいようで、中央の前の方に座る。
 予定通り10時30分セミナー。開始。まずは前述のセミナーのページから引用するに「10:30~10:45 ◎開会挨拶 人文科学研究所長 城卓二」とのこと。当然、京都大学人文科学研究所の紹介。中は公開してなくて、「すぐわかアカデミア。」で下記の動画で少し映像が公開されたそうで。その動画自体、「内容がとてもよかった」とのことで、異例の公開回数となったって話をされていたっけ。今見るとリーディングリストの存在や書評の活用方法など、どの学術分野でも応用が効きそうな内容だった。

・すぐにわかる学術書の読み方 ~大量の本にどう向き合うか〜
https://www.youtube.com/watch?v=a7K1fKX-kRM

 それで10時41分はじめの講演開始。前述のセミナーページから引用するに「10:45~11:45 ◎講  演 三世紀の牛車と騎馬――曹操から楊彪への書簡を糸口として 京都大学名誉教授・公益財団法人黒川古文化研究所長 岡村秀典」
 ※牛車、「ぎっしゃ」発音なんだね、日本史的な。合せてくれたか?→後に判明
 ※後の昼休みに某さんもローカルでおっしゃっていたが、レジュメと口述の順番(スライド)が一致してない。某さんはそれについてあれこれ推測されていらっしゃった。
 カラー両面印刷で綴じており、10ページのA4冊子がレジュメとなる。スライドを見せつつ、進めていく。楊彪について。『後漢書』立伝。宮城谷昌光『三国志外伝』の楊彪をまくらことばにして紹介。レジュメp.2に転載した分も含めWikipedia読み上げ※にしてもコスト低すぎないか、考古学が専門っていっても。聴く側の頭に入りやすいようへの配慮?

※関連記事 三国志外伝(2014年5月16日)

 レジュメp.2の後半、楊氏墓室の図。「煬氏」と朱書していたものの、あの後漢の楊氏の確信が持てないとのこと。Wikipedia読み上げに戻って先見の明の語源のところ。
 レジュメp.1「曹公与楊太尉書」のところ。219年の曹操の逸話から。曹操が楊修を殺してしまい、その父の楊彪に謝罪的な牛車含む贈り物をしているという、「曹公与楊太尉書」について。レジュメでは『曹操集』から引いている。

※関連記事 曹操集(1959年)

 「曹公与楊太尉書」に贈り物の具体的な記述があって、その読み上げ。曹操がこの時なぜ牛車を贈ったかが、ポイント。後漢時代馬車はステイタスシンボルだった。趙忠の一族の墓と言われるものの紹介。車馬行列で一番えらい人の傘の色、泥除けの色など、『続漢書』輿服志に記述があり、考古資料と照らし合わせができる。4世紀になると周辺国に出てくる、レジュメp.1「図1 北朝鮮安岳3号「冬寿」墓の通幰車」にふれる。騎兵歩兵がまもっていて、と解説。オープンカー形式の牛車に乗ると。曹操のもオープンカー形式の牛車(通幰車)だと。パレードの中心はそれまでだと馬車だったが、『晋書』輿服志より「霊帝・献帝以来」牛車に乗るようになった。  レジュメp.3「車馬から牛車へ」、p.4雲母車の解説、洛陽西高朱村曹魏大墓のタグ(石牌)に「雲母犢車一乗、蓐坐・牛人自副」とあると。つまり曹魏明帝期には雲母車が出現していると。雲母犢車は牛車に雲母をはりつけたもの。これは皇帝が王公にあたえたと。男性は鞍馬にのり、女性は牛車に乗ったと考えられている。
 山東省鄒城「劉宝」墓について。西に本人、東に夫人の墓室。p.4下にその図。墓誌の拓本、そこに役職が書かれていて、さらに牛車の俑が出土している。劉宝の方は馬車、鞍馬、オープンカー形式の牛車、かまぼこ屋根の牛車、夫人の方はかまぼこ屋根の牛車の俑が出土している。
 レジュメp.4の冒頭の文で、『晋書』輿服志だと車馬「安車」「軺車」、牛車「雲母車」「皁輪車」「油幢車」「通幰車」、それぞれ階級に応じて乗れる、雲母車がハイランクで王公しか乗れないと。そこらへんの詳細がp.3「表1 晋書輿服志の車制(小林聡2002を一部改変)」でまとめられる。この論文は知らなくて検索するとPDFで読めるようだね→新規記事予定

※新規関連記事 リンク:西晋における礼制秩序の構築とその変質(九州大学東洋史論集 第30号 2002年4月)
 
 漢代とそれ以前のの牛車は運搬用の荷車と、馬車が銭五千で牛車が銭二千と(※ここで荷車なので「ぎゅうしゃ」と言い改める、そういう区別?)。レジュメp.5『晋書』輿服志より「霊・献帝より以来、天子より士に至るまで遂に以て(牛車を)常乗と為す」とのこと。
 レジュメp.4 4段落目「漢末から魏晋の貴族は、なぜ軽快な車馬を棄てて遅鈍な牛車に乗り換えたのだろうか?」、151年没の武梁の石碑を読み上げ、その画像石「處士」に牛車が描かれ「県功曹」とある(p.6図5)。「處士」は官に就かず郷党の称賛を得た存在。他にも粗末な「柴車」(牛車)に乗っていた人があげられる。p.5 赤壁の戦い前の魯粛のエピソードに「犢車」が言及される。「要するに、牛車が上層社会に流行したのは、後漢中期以降の士風が主たる要因であった。」清流の士風とのこと。「魏晋以降、士大夫の貴族かとともに牛車もますます華美になり、新しい車制が出現することになったのである。」
 「光る君へ」を導入に使っていて、牛車は曹操の時代に生まれ、両晋南北朝・隋唐をへて平安時代に伝わったと。そこで先生の『東アジア古代の車社会史』(2021年7月)に触れられる。下記関連記事によると「機動性を求めた戦車からステイタスシンボルとしての車馬へ、やがて貴族制の成立とともに遅鈍な牛車に乗りかえる」と概要が書かれる書籍。

※関連記事 東アジア古代の車社会史(2021年7月)

 ここから後半部分とのことで、貴族はどのように馬に乗るようになったのか。まず中国における騎馬のはじまり。鞍の歴史。馬の背中にあたって痛いので革製の柔らかい座布団のような薄い鞍をつけていたと。スライドには様々な鞍が。奏始皇兵馬俑の鞍はまだ座布団のような薄い鞍。前漢になると鞍を装飾するようになる。p.7 漢の宣帝が匈奴に賜与した「安車一乗、鞍勒一具、馬十五匹」(『漢書』匈奴伝下)。p.7の中頃に図6があり、そこに「モンゴル・ノイン-ウラ6号墓出土木製鞍橋」の図が含まれる。刺繍の模様から中国製の鞍と。木製の厚めの硬式鞍。※様々な図像がスライドに出てくるのだけど。※矛というより戟、鏡の彫刻の方、ともにレジュメにない。「尚方作」が鏡 緑の騎馬俑。
 p.7の下四分の一の文と、p.8の「図7 南京市幕府山「丁奉」墓出土騎馬俑〔周・周2023:図2を改変〕」。片鐙。現状、世界最古の鐙(の表現)※実物じゃなくて俑なので。この「周・周2023」では片鐙を『三国志』呉書の「又知上馬輒自超乘、不由跨躡、如此足下過廉頗也」の「跨躡」に比定すると。p.8図8の安陽孝民屯154墓出土馬具について、馬の腰を覆うように復元された鈴付き「鑾飾」について、鈴の装飾。p.9曹操が楊彪に贈った「鈴苞」についてこういう鈴付き馬具だっただろうと。贈らてた馬具推察。東晋時代322年南京市象山7号「王廙」墓の騎馬俑は高橋鞍、装飾的な尻繋で両方鐙。王廙について307年に建業に乗り込んだ司馬睿を軸に説明。※他にも年代順に出土した鞍・鐙についてまとめられていて、鐙に興味があったんでわかりやすかった。
 時間ぴったり11時44分終了


 「11:45~13:00 ◎休憩」。特に食料の持ち合せはなかったが土地勘がない所なので探すのが面倒だし特にお腹も減ってないのでどっちでも良いと思っていたら、某さんから声をかけられて、「よくわかったね」という旨を申し上げるとPCをいじってたからと。なるほど。外に食べに行こう、買いに行こうということにかこつけて道中、その方から興味深い話を伺っていたのだけど、どうも某さん、お忍びで聞きに来ているらしく、そこには存在しない設定だそうで、だとしたらここでは何も書けない。結局、想定通り平日のオフィス街だから入れないぐらい混んでいたんで、スーパーマーケットに入ろうとしたらそっちも混んでいて、空いてはいないが回転の良いコンビニエンスストアで食料を買って戻ってきた。

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