2009年に河南省安陽の西高穴村で曹操墓(220年),翌年曹操の族子、大司馬の曹休の墓(228年)が洛陽の後漢帝陵区でみつかりました。洛陽の邙山では魏の元帝から禅譲された西晋武帝(司馬炎)の峻陽陵とその陪葬墓も発掘されています。呉の建業(南京)では左大司馬・右軍師の朱然の墓(249年)や上坊孫呉墓、三国の都城、鄴城・洛陽城・建業城、公孫氏(燕)の襄陽城(遼陽)についても調査されています。魏志東夷伝の高句麗・国内城(集安)・夫餘・東団山城(吉林)、そして倭の宮都纒向遺跡、黒塚古墳など、『三国志』が発掘されています。3世紀の東アジアは魏・呉・蜀・公孫氏の覇権争い、魏の高句麗・韓の討伐という戦争の時代でした。そうした国際環境のなかで、親魏倭王卑弥呼に金印紫綬が仮授、率善中朗将難升米に黄幢が下賜され、台与の時代には晋式帯金具が新山古墳の被葬者に授けられています。三国志の考古の世界を垣間見たいと思います。
【カリキュラム】
① 8月29日 発掘された魏晋の都城と墳墓
② 9月12日『三国志』のなかの邪馬台国