三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【3728】三国志名将二十四選[0]  /  【3727】初めまして…[0]  /  【3650】曹操から曹植に下賜された...[8]  /  【3725】新潮劇院 新春京劇祭 20...[0]  /  【3723】はじめまして[0]  /  【3717】登場人物が知りたいです[2]  /  【3620】豪族の動員力・・・[2]  /  【3710】呂拠が孫覇派な理由[1]  /  【3708】久しぶりに投稿[1]  /  【3700】「右脅」は「左鎖骨」?[4]  /  

【3728】三国志名将二十四選
雑談  素人  - 2013/2/8(金) 16:13 -

引用なし
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   三国志の名将を24人選ぶとしたら、どうなるでしょうか?
2chにも同名のスレッドがありますが、ここの皆さんの意見を伺いたいです!

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【3727】初めまして…
紹介  吉好二 WEB  - 2013/1/25(金) 9:02 -

引用なし
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   初めまして…HNを吉好二と申します…

EZ三國志などをプレイさせて頂いている素人に毛が生えたようなものです…

私も三国志が好きで、携帯でHPや人名事典もどきまで拵えてしまいました(笑ってやってください…)…

自分でもまだまだ不十分な出来ですが、宜しければ遊びに来ていただけると幸いです…

情報・批判・応援なども大歓迎です…

三国志全人名事典→http://a.viewst.jp/3594jinmei/
<sage>

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【3650】曹操から曹植に下賜された馬の名前?
教えて  青木朋  - 2010/10/26(火) 1:10 -

引用なし
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   話題提供というか、ちょっとした時間つぶし的な質問です。

中国語のサイトで、名馬の名前を検索していたら、

《魏志》陳思王表文帝曰:“臣于武皇帝世得大宛紫[馬+辛]馬一匹、教令習拝。

という文章に巡り合ったのですが、出典が分かりません。
正史三国志では無いようなのですが・・・?(ネットで全文検索してみただけです。汗)
お分かりの方がおられましたら、ご助言ください。

【3656】Re:『古今図書集成』
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2010/11/2(火) 13:02 -

引用なし
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   こんにちわ。

▼XiaoQさん:
>そうなんです、いつも出典がどこなのか?とグルグル探し回って迷子になってしまうサイトなんです・・・
>ここで以前に
>《典略》:曹操殺楊修曰:芳蘭當門不得不除。
>という引用を見つけてからずっと、どういう本なのか気になってたました。

私はむしろ、こちらの方がどういう経路での引用文なのか、気になりました(笑)
(ちなみに、今、私のところからは件のサイトへはアクセスできなくなっています)

「芳蘭當」を手掛かりに軽く探してみると、似たような文が一種二文献で見かけましたが、共に無関係でしょうかね。何の根拠もない妄想的な第一印象ですが、尊劉貶曹な後世の人が書き替えたのかと思いました。

・『太平御覧』巻九百八十三 香部三 槐香

『蜀志』曰:先主殺張裕、諸葛亮救之。先主曰:「芳蘭當門、不得不鋤。」

・『藝文類聚』巻八十一 蘭

蜀志曰.先主殺張裕.諸葛亮救之.先主曰.芳蘭當門.不得不鋤.

【3657】Re:曹操から曹植に下賜された馬の名前?
感謝♪  青木朋  - 2010/11/4(木) 12:45 -

引用なし
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   丁寧な解答ありがとうございました!
遅レスすみません。
なんだか程好い話題提供にもなったようで、「古今圖書集成」の話も勉強になります。

>『太平御覧』卷八百九十四 獸部六 馬二
>(『魏志』曰)
> 又曰:陳思王表文帝曰:「臣於武皇帝世得大宛紫〓馬一匹、形應圖法。善持頭尾、教令習拜。今已能拜、又能行與鼓節相應。謹以奉獻。」

この漢文の意味が完全には理解できなのですが、もしお暇でしたらお教えください。汗
分からないなりの訳文は↓

曹植が曹丕に出した表にいわく、「私が曹操の御世に手に入れた大宛紫[馬+辛]馬一匹は、形は図法にかない、頭から尾まですぐれていて、教えたことはすぐ習得します。今、陛下に拝謁がかない、謹んで献上いたします。」
(はい、「又能行與鼓節相應」の部分の訳がありませんね。汗)

スレッドの題を「曹操から曹植に下賜された馬の名前?」にしましたが、それ自体まちがっていたかなと、穴に逃げ隠れる準備をしております。。。

【3659】Re:曹操から曹植に下賜された馬の名前?
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2010/11/5(金) 0:59 -

引用なし
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   ▼青木朋さん:
>>『太平御覧』卷八百九十四 獸部六 馬二
>>(『魏志』曰)
>> 又曰:陳思王表文帝曰:「臣於武皇帝世得大宛紫〓馬一匹、形應圖法。善持頭尾、教令習拜。今已能拜、又能行與鼓節相應。謹以奉獻。」
>
>この漢文の意味が完全には理解できなのですが、もしお暇でしたらお教えください。汗
>分からないなりの訳文は↓
>
>曹植が曹丕に出した表にいわく、「私が曹操の御世に手に入れた大宛紫[馬+辛]馬一匹は、形は図法にかない、頭から尾まですぐれていて、教えたことはすぐ習得します。今、陛下に拝謁がかない、謹んで献上いたします。」
>(はい、「又能行與鼓節相應」の部分の訳がありませんね。汗)
>
>スレッドの題を「曹操から曹植に下賜された馬の名前?」にしましたが、それ自体まちがっていたかなと、穴に逃げ隠れる準備をしております。。。

こんばんわ。

あと、ほぼ同じ文を別の所から見かけました。

『藝文類聚』巻九十三 獸部上 馬

【表】魏陳王曹植獻文帝馬表曰.臣於先武皇帝世.得大宛紫[馬辛]馬一疋.形法應圖.善持頭尾.教令習拜.今輒已能.又能行與鼓節相應.謹以奉獻.


それで訳の方ですが、自分なりに訳すと次のようになりました。

『太平御覧』卷八百九十四 獸部六 馬二
(『魏志』曰)
 又曰:陳思王表文帝曰:「臣於武皇帝世得大宛紫[馬辛]馬一匹、形應圖法。善持頭尾、教令習拜。今已能拜、又能行與鼓節相應。謹以奉獻。」

また『魏志』に言う。陳思王が文帝に表して言う。
「臣(わたし)は武皇帝の世代に於いて大宛の紫[馬辛]馬一匹を得て、形は図法に従いました。善く頭尾を保ち、教令し習授しました。今、すでによく馴れており、またよく行き鼓節に従い、あい応じます。謹んで奉献いたします」

「節」に「やむ、とまる」という意味があるので、「鼓節」は「鼓進」(太鼓を打ちならして進む)のように、動詞として用いるのかな、とも思ったんですが、そういう用例が他に見あたらなかったので、普通に鼓と節の意味で用いました。あと「形應圖法」にしても「形法應圖」にしてもよくわからないです。

【3726】Re:曹操から曹植に下賜された馬の名前?
 里斎  - 2012/11/18(日) 14:29 -

引用なし
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   どこにレスすればいいかわからなかったので、スレッド表示の一番下の書き込みに下げておきます。

『藝文類聚』
『太平御覧』
『古今圖書集成』
の三種の書物は、いずれも同じジャンルのもので、「類書」と言い、今の「百科事典」に相当します。
ただし、今の百科事典の編纂方法とは異なり、一物に関する記事を、先行する様々な文献からそのままコピーして載せているので、既に失われた書物や、現在伝存するものとは異なるバージョンの記事が見付かることがあり、古典を研究する上では欠かせない基本文献です。

曹操の時代に入手した、とあるのみで、下賜かどうかは書かれていません。が、下賜であればそう書くと思うので下賜ではないでしょう。

「鼓節」の「節」は「拍節」「節奏」の「節」で、「リズム」の意味です。太鼓のリズムに合わせて進むことができた、という意味で、これは軍馬として調教を受けていることを示すのだと思います。(軍は太鼓の合図で行軍するので)

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【3725】新潮劇院 新春京劇祭 2013
話題提供  taka WEB  - 2012/11/17(土) 19:05 -

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   この場をお借りして告知させていただきます。
管理人様 よろしくお願い致します。
----------------------------------------------------
新潮劇院は中国伝統芸能「京劇」、日本での普及をテーマに、
京劇俳優・張春祥が主宰している在日の京劇団です。
2013年の新春を祝って、
2日間に渡る京劇公演を開催いたします。

演目のうち一つは三国志を題材にした
「華容道 -赤壁・曹操追撃戦-」〜三国志演義より〜
になります!
この他、中国歴史ファンにはおなじみの人物達も活躍いたします!
----------------------------------------------------------------
新潮劇院 新春京劇祭 2013
2013年1月12日(土)、13日(日)
なかのzero・小ホール
JR・東京メトロ東西線「中野」駅南口徒歩8分
----------------------------------------------------------------
<タイムスケジュール>
 【Aプロ】 12日(土)19:00(18:30開場)
   演目:「鐘馗嫁妹 -鐘馗の嫁送り-」「貴妃酔酒」
      「小商河」 〜岳飛伝より〜
 【Bプロ】 13日(日)14:00(13:30開場)
   演目:「鉄弓縁」/京劇レクチャー/  
      「華容道 -赤壁・曹操追撃戦-」〜三国志演義より〜

<京劇レクチャー>
加藤徹(明治大学教授)
----------------------------------------------------------------
<チケット料金> 
 [Aプロ・Bプロ]
  各S席:5,500円/A席:3,800円/高校生以下:2,000円

 [2公演S席通し券] ※劇団のみ取扱
  一般のみ:10,000円
※当日券は各500円増
※中野区民は各500円引き(劇団/zeroのみ取扱)
※全席指定、字幕付き
<チケット取扱>
※ 2012年11月6日(火)10時チケット販売開始
■劇団のホームページより購入
http://www.shincyo.com/

■なかのzeroのチケットセンター
 http://nicesacademia.jp/kouen/

■イープラス
 http://eplus.jp/  

----------------------------------------------------------------
詳しくは新潮劇院HPまでどうぞ!
新年早々、日本に居ながら中国伝統芸能を堪能できる2日間。
その豪華絢爛な世界を、ぜひ、お見逃しなく!皆様のお越しをお待ちしています!
http://www.shincyo.com/

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【3723】はじめまして
紹介  馬耳東風  - 2012/9/5(水) 19:05 -

引用なし
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   はじめまして、当方、馬耳東風と申します。
勝手ながら、自分のブログに、こちらの掲示版のリンクを貼らせて
いただいた旨をお断りをしておきます。

自分のブログの内容は、三国志をモチーフにした
自作のダンジョンRPG(ウィザードリィ)の解説です。
自作ゲームと云いましても市販のウィザードリィのシナリオエディタで
作成したものでゲームの骨組みはウィザードリィそのものです。

三国志のRPGは、あまり見かけないので
興味のある方は、ブログへお立ち寄りください
馬耳東風の井戸
http://bajitouhuu64.blog68.fc2.com/

こちらの掲示版は内容が濃いわ深いわで怖じ気づき
ほぼROM専な自分ですが(汗)以後、よろしくお願いします。

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【3717】登場人物が知りたいです
 さおり  - 2012/2/21(火) 16:07 -

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   はじめて投稿します。

以下のエピソードに関する人物が、誰のことだったか思い出せず、おわかりになる方、教えていただけますか。

劉備「あなた自身はどれくらいの兵を動かすことができるか?」
誰か「1万人です」
劉備「では、私はどれくらい兵を動かせると思うか?」
誰か「1000人です」
劉備「私よりあなたの方が多いのか(ガッカリ)」
誰か「あなたは1000人しか動かすことはできないけれど、1000人の隊を動かすことができる10人を育てることができる。」

というエピソードです。
演義のどのシーンだったかも、併せて教えていただけると助かります。
よろしくお願いいたします。

【3718】Re:登場人物が知りたいです
 Jung  - 2012/4/23(月) 16:15 -

引用なし
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   演義にそのようなシーンがあったかどうか、私は分からないのですが・・・
同様の逸話は前漢の初めにあります。
劉備ではなく、漢の高祖・劉邦とその家臣である韓信の対話によるものです。

もし劉備と誰かがそのような話をするとしたら、相手は諸葛亮か&#40848;統のいずれかでしょうね。

【3721】Re:登場人物が知りたいです
 さおり  - 2012/7/17(火) 16:42 -

引用なし
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   ▼Jungさん:
お礼が遅くなり失礼しました。
ご回答、ありがとうございました。
劉邦の方ですか・・・。
さらいたいけれど、どちらも時間がかかりますね(苦笑)。

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【3620】豪族の動員力・・・
教えて  陳ぐん  - 2010/6/5(土) 8:54 -

引用なし
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   陸伯議さん、はじめまして。
陳ぐんと申します。
私も学校では幾度となく同じ様な目にあっております。

本題ですがこのころの豪族というものはどれほど
の影響力、動員力を持っていたのでしょうか。
後にセッキョとか言う豪族が唐軍を大破してたりしていますが
後漢の豪族というのはこれほどまでに強力なものだったのでしょうか。
呉が豪族の連合体であったということは聞いていますが
一人ひとりの豪族が持つ私兵の数はいったいどれほどのものだったの
かもよくわかりません。
どなたかお願いします。

【3669】Re:豪族の動員力・・・
 ふむふむ  - 2010/12/7(火) 5:25 -

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   李典伝に李典が部曲宗族一万三千人を擁していたとの記事があります。
おそらく、これが一人の豪族が従えられる最大級の人数でしょうね。
でも、この中には部曲も佃客も賓客も一族も含まれてると思いますので、
せいぜい部曲は数千人と言うところでしょう。

これより多くの部曲を従えていた人物もいますが、
彼らは官職を有してその職権で部曲を増大させたり、
独立勢力として郡県を支配して部曲を集めていたりしていたので、
純粋な在地豪族とは言えないでしょうね。

【3712】Re:豪族の動員力・・・
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/12/18(日) 20:21 -

引用なし
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   こんばんわ。
一年半も前の書き込みで、それにレスしてもツリー主に気付かれず、あまり意味がないでしょうが、見かけたので紹介しておきます。
下記の論文のP.14の注で「(8) 豪族の概念については問題が多い。ここでは、一定の族的結合を持ち社会的に影響力を持つ勢力として考えておきたい。また官僚を輩出することのみをもって、豪族と規定することはできないと考える。」とありました。
まず「豪族」の定義付けか別の言葉に換える必要があるようです。

西川 利文「胡広伝覚書──党錮事件理解の前提として──」(『文学部論集』第82号 (199803) pp.1-17 佛教大学 )
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006473004


▼陳ぐんさん:
>陸伯議さん、はじめまして。
>陳ぐんと申します。
>私も学校では幾度となく同じ様な目にあっております。
>
>本題ですがこのころの豪族というものはどれほど
>の影響力、動員力を持っていたのでしょうか。
>後にセッキョとか言う豪族が唐軍を大破してたりしていますが
>後漢の豪族というのはこれほどまでに強力なものだったのでしょうか。
>呉が豪族の連合体であったということは聞いていますが
>一人ひとりの豪族が持つ私兵の数はいったいどれほどのものだったの
>かもよくわかりません。
>どなたかお願いします。

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【3710】呂拠が孫覇派な理由
 叔嗣  - 2011/11/21(月) 21:40 -

引用なし
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   お久しぶりです。
最近になって、三国志の自己解釈が進んでいます。

そこで、三国志最大の謎の一つ二宮の変について質問です。

孫ぽこさんのサイトやウィキにて孫覇派の人物の中に
呂拠が入っているのですが、何故入っているのか理由がわかりません。

孫覇派とされている理由は何なんでしょうか?

【3711】Re:呂拠が孫覇派な理由
解決  叔嗣  - 2011/11/21(月) 22:29 -

引用なし
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   お騒がせしました。解決しました。
孫和伝に書いてありました。

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【3708】久しぶりに投稿
♪  ペテン師  - 2011/11/14(月) 1:24 -

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   三国志の人物の名前について調べています


一般的に知られている伯仲叔季幼の文字以外で
添え字だと思われる文・公・景・孔・子
庶子の孟


など色々な文字がありますが、呼んでいるとどうも添え字の中でも貧富・正妻・側室・側妾など母方の出自により異なっているのではないかと思いだしております。

そこで名前の付け方などについて書かれている書籍があればぜひ教えてください

【3709】Re:適長稱伯、庶長稱孟
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/11/16(水) 1:42 -

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   こんばんわ
答えでも何でもないんで、アイコンは「雑談」で。

▼ペテン師さん:
>一般的に知られている伯仲叔季幼の文字以外で
>添え字だと思われる文・公・景・孔・子
>庶子の孟

 伯仲叔季については『三国志』等の史書に具体例が散見され特に疑問に思わないのですが、「孟」については何か根拠や具体例があるんでしょうかね。
 ネット上で論拠を明示されないままよく見掛けましたので、この時代にも当てはまるのか等も含め、ふと気になりました。

…と気になったままで終えない気分でしたので、まずこの掲示板でもたびたび出ている『[#?太平御覧]』を当たって、巻三百六十三 人事部四 字を見てみました。
 その項目に挙がっている文献を辿ると、紀元79年に作られた班固『白虎通義』姓名篇の下記の記述に行き当たりました。

 人所以有字何?冠徳明功、敬成人也。故『禮士冠經』曰:「賓北面、字之曰伯某甫。」又曰:「冠而字之。」敬其名也。所以五十乃稱伯仲者、五十知天命、思慮定也、能順四時長幼之序、故以伯仲號之。『禮檀弓』曰:「幼名、冠字、五十乃稱伯仲。」『論語』曰:「五十而知天命。」
 稱號所以有四何?法四時用事先後、長幼兄弟之象也、故以時長幼號曰伯、仲、叔、季也。伯者、長也、伯者子最長、迫近父也。仲者、中也。叔者、少也。季者、幼也。適長稱伯、伯禽是也。庶長稱孟、以魯大夫孟氏。

 ここに「伯仲叔季」については書かれており、嫡子の長を伯と称し、庶子の長を孟と称することが書かれてますね。
 もうちょっと踏み込んで、「孟」の具体例があるか探して、どれぐらいこれが適応されているか見ていきたいところです。

 『白虎通義』の原文を探す過程で下記のサイトを見掛けました。この「書簡」のところに、「中国史覚え書き? 字(あざな)」というページがあって、字についてあれこれ考察されております。こんな感じで自力で調べていくと楽しいかもしれません。

・風の名前
http://bamboocentury.gozaru.jp/


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【3700】「右脅」は「左鎖骨」?
教えて  中彎  - 2011/10/10(月) 13:56 -

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   はじめまして。こちらでは中彎と名乗ることに致します。
中年の三國志ファンです。

正史とちくま訳との間の違いで気になったことがあり、
詳しい方にお教えいただきたく、思い切って投稿致します。

『三國志』周瑜伝で、「赤壁」のあとの対曹仁江陵攻防戦の場面、
周瑜は負傷しますが、その様子について、

中央研究院 漢籍電子文獻 によれば、

會流矢中右脅

となっており、対してちくま学芸文庫の訳では、

流れ矢が左の鎖骨に命中し、

とされています。

左右が逆のように思うのですが、これで正しいのでしょうか。
それとも「左右」について、今と違う用法があったのでしょうか。

【3701】Re:「右脅」は「左鎖骨」?
多分…  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/10/10(月) 18:09 -

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   初めまして、清岡です。

それは初耳でしたので、何刷等を考えず、一応、手元にあるハードカバーの『世界古典文学全集24 三国志』(筑摩書房)、文庫の『正史 三国志』(筑摩書房)で確認すると、おっしゃるとおり、「左の鎖骨」となっていますね。

それに対して原文の『三国志』(中華書局)、『三国志集解』(藝文印書館)で確認すると、おっしゃるとおり、「右脅」となっていますね。
念のため、『太平御覧』で確認すると、卷三百七十一 人事部十二 脅の項目に件の箇所が引用されており、やはり「右脅」となっていました。

左右の違いはともかく、「脅」を『CD-ROM版 字通』で引いてみると、訓義の「1」が「わき、わきばら、あばら、かたわら」となっており、さらに『説文』の「両膀なり」を引き「両脇の意とする」と書かれてあり、特に「肩」という意味はありませんでした。

まさかと思い、『三国演義』(毛本、電子文献)を見ると、「第五十一回:曹仁大戰東呉兵、孔明一氣周公瑾」に「周瑜急勒馬回時、被一弩箭、正射中左肋、翻身落馬。」とあり、左右の違いはありますが、「左肋」とあばらを意味する言葉が出ています。

もしかして版によっては「左の鎖骨」を意味する言葉になっているかもしれませんが、通行する『三国志』では「右脅」で良いと思います。訳す人の所へ渡った文が違ったものになっていたか、渡った時に情報損失(原文の字が潰れていた等)があったんでしょうかね。『三国志』の訳は他にも徳間書店のものがあるそうですので、念のためにそれで確認するとよいかもしれません。但し私はそれに『三国志』巻五十四呉書周瑜伝の訳が載っているかどうか未確認です、すみません。


あと当時と今ではおっしゃるとおり左右の概念が違うという可能性がありますね。例えば、主体視点の左右か、主体と向かい合った客体視点の左右かと言うことですね。
時代の近い『礼記』(とは言っても成立が数百年遡りますが)を読む限り、左右の概念は今と同じだと存じます。そこには前後左右以外にも東西南北が記されていて、矛盾無く読めますので。

▼中彎さん:
>はじめまして。こちらでは中彎と名乗ることに致します。
>中年の三國志ファンです。
>
>正史とちくま訳との間の違いで気になったことがあり、
>詳しい方にお教えいただきたく、思い切って投稿致します。
>
>『三國志』周瑜伝で、「赤壁」のあとの対曹仁江陵攻防戦の場面、
>周瑜は負傷しますが、その様子について、
>
>中央研究院 漢籍電子文獻 によれば、
>
>會流矢中右脅
>
>となっており、対してちくま学芸文庫の訳では、
>
>流れ矢が左の鎖骨に命中し、
>
>とされています。
>
>左右が逆のように思うのですが、これで正しいのでしょうか。
>それとも「左右」について、今と違う用法があったのでしょうか。

【3702】矢傷が死因となった可能性
感謝♪  中彎  - 2011/10/14(金) 6:58 -

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   清岡様

質問者の中彎です。

お礼が遅れました。書き込んですぐに、とても詳しいご回答をいただき、
感激しております。ありがとうございました。

「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
つまり右腕を挙げていたと想像されます。
右手で掲げていたのは、剣でしょうか。
矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
当時呉にはなかったのでしょうか。

周瑜の受傷部位などと言う、些末なことに関心を持った理由は、
もしかしたらこれが彼の死因になったかもしれない、と想像したからです。

『三国志』周瑜伝には、孫策と同じ年と書かれており、
だとすれば生年は、西暦175年でしょう。
同じく周瑜伝には、死亡時36歳、とありますので、
西暦210年に死去したことになります。

『赤壁』の決着が『三国志』武帝紀をみると陰暦で西暦208年12月のようで、
その後江陵攻防に移るのですが、
呉主伝ではこれが1年あまり続いたように書かれています。

はじめは夷陵の攻防があったりして、そのあとのことですから、
周瑜受傷の時期は、江陵戦の終結近くでしょう。

すると、受傷から死去まで、長く見ても1年程度と見積もられるのではないでしょうか。
その間周瑜は「劉備に宮室」の謀略を提案したりはしますが、たぶん陣頭には立たず、
久しぶりに戦場へ出ようとして、ほどなく病死したように見えます。

矢傷自体からは生き延びたが、体の奥に化膿巣が残り、
後にそこから全身に波及して、というようなストーリーを考えてしまいます。
正面から矢を受けるよりも体側部の方が、即死を免れるチャンスが高い気がします。

言いたい放題の長文、失礼致しました。▼清岡美津夫さん:

【3704】Re:矢傷が死因となった可能性
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/10/15(土) 0:19 -

引用なし
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   こんばんわ。

さすがに周瑜の死因まではすぐに考えが及びませんが、それ以外ではあれば、お役に立てそうな分は返信致しますね。


▼中彎さん:
>「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
>右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
>つまり右腕を挙げていたと想像されます。
>右手で掲げていたのは、剣でしょうか。

周瑜は将士ですので、指麾に使う旄を持っていたかもしれませんね。
あと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にあるこの「瑜親跨馬擽陳」に似た表現を含むのに、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「身跨馬櫟陳、手撃急鼓」という表現がありますので、鼓を持っていたかもしれません。

それと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にある「會流矢中右脅」の「流矢」についてですが、何年か前に個人サイトのコンテンツかコミュニティかで、「流矢」の意味を日本語のそれと同じ意味ではないのではないかといった話が出ていました。
つまり、「流矢」を「流れ矢」、つまり目標から「逸れた矢」としての意味ではないという話です。
当時は単になるほどな、と思ったぐらいで特に論拠等に当たりませんでした。
今、『三国志』およびその注に当たると、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「弓弩並發、流矢雨集、」(弓と弩が並び発し、流矢が多く集まり、)という表現があって、少なくともここでは少量の「逸れた矢」といった意味でなく大量の「流れる矢」の意味として出ていますね。

>矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
>筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
>当時呉にはなかったのでしょうか。

鎧に関しては下記の「奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ」にある小林謙一「東アジアにおける武器・武具の比較研究」(平成16年度〜平成19年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書(課題番号16520478)、2008年7月)のP.14からの「IV 中国の甲冑」が参考になるかと思います。それを読むと筒袖鎧には程遠いように思えますね。

・XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
http://repository.nabunken.go.jp/

・東アジアにおける武器・武具の比較研究 - XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/detail.php?item_id=1199

【3707】深謝
感謝♪  中彎  - 2011/10/22(土) 8:56 -

引用なし
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   お礼が遅れましたことをお詫び致します。
先の独り言みたいな書き込みにまで、ご丁寧なご返事をいただき、痛み入ります。
清岡さまの博識と親切に、あらためて感服致しました。
あるいは偶然に武装が、現在清岡さまのご関心分野でしたでしょうか。
とても勉強になりました。ありがとうございました。

『流矢』については、以前読んだことがあったのをご指摘で思い出しました。
高島俊男氏著『三国志 きらめく群像』(ちくま文庫)の、&#40848;統の箇所です。
その後どこだか失念しましたが、ネット上の議論で、「必ずしも大量の矢の群れだけでなく、目標を逸れた矢の用途もある」という発言をみた気もします。
ともかくそうなると、周瑜は一本だけでなく、複数の矢を受けたのかも知れませんね。

鎧についても、とても勉強になりました。当時の鎧が多数の札を綴じたものだとは、
篠田耕一氏の『三国志軍事ガイド』(新紀元社)などで知りましたが、
何となくこれまでもっと自由に折りたためるものと考えていましたので、胴部の大半が上下方向に固定されていたとは意外でした。

また機会がありましたらぜひご教示お願い致します。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>さすがに周瑜の死因まではすぐに考えが及びませんが、それ以外ではあれば、お役に立てそうな分は返信致しますね。
>
>
>▼中彎さん:
>>「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
>>右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
>>つまり右腕を挙げていたと想像されます。
>>右手で掲げていたのは、剣でしょうか。
>
>周瑜は将士ですので、指麾に使う旄を持っていたかもしれませんね。
>あと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にあるこの「瑜親跨馬擽陳」に似た表現を含むのに、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「身跨馬櫟陳、手撃急鼓」という表現がありますので、鼓を持っていたかもしれません。
>
>それと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にある「會流矢中右脅」の「流矢」についてですが、何年か前に個人サイトのコンテンツかコミュニティかで、「流矢」の意味を日本語のそれと同じ意味ではないのではないかといった話が出ていました。
>つまり、「流矢」を「流れ矢」、つまり目標から「逸れた矢」としての意味ではないという話です。
>当時は単になるほどな、と思ったぐらいで特に論拠等に当たりませんでした。
>今、『三国志』およびその注に当たると、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「弓弩並發、流矢雨集、」(弓と弩が並び発し、流矢が多く集まり、)という表現があって、少なくともここでは少量の「逸れた矢」といった意味でなく大量の「流れる矢」の意味として出ていますね。
>
>>矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
>>筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
>>当時呉にはなかったのでしょうか。
>
>鎧に関しては下記の「奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ」にある小林謙一「東アジアにおける武器・武具の比較研究」(平成16年度〜平成19年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書(課題番号16520478)、2008年7月)のP.14からの「IV 中国の甲冑」が参考になるかと思います。それを読むと筒袖鎧には程遠いように思えますね。
>
>・XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
>http://repository.nabunken.go.jp/
>
>・東アジアにおける武器・武具の比較研究 - XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
>http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/detail.php?item_id=1199

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