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結局、当時の私は思い込みで中央研究院兩千年中西暦轉換[#1825]を見ていたのでは?という結論ですが、9年近くの時を超え訂正です。
・呉下の凡愚の住処
http://ameblo.jp/ancyon/
・東呉大帝孫権の命日
http://ameblo.jp/ancyon/entry-12154100528.html
・ア団 (Vitalize3K) on Twitter
http://twitter.com/Vitalize3K
・Twitter / Vitalize3K: 「最後になりますが『建康實録』には「(神鳳元年)夏四月乙未,帝崩於内殿」と記載され、『集解』には「潘眉曰:呉主以四月薨推神鳳元年四月乙未,乃二十六日傳文脱二字也」とあります。ですので16日ではなく26日だと考えてます。
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http://twitter.com/Vitalize3K/status/725690134247526400
多分、当時、『三国志集解』を持ってなかったんで、それに当たるという基本が私になかったと。ちなみに『三国志』巻四十七呉書呉主伝の「時七十一」の集解部分が「權疾困召諸葛恪孫弘滕胤呂據孫峻屬以後事見諸葛恪傳」とあり、特に日付のことがかかれてないのですが、上記四番目のリンク先にあるように、巻六十四呉書諸葛恪伝の「今月十六日乙未」の集解部分が「潘眉曰呉主以四月薨推神鳳元年四月乙未乃二十六日傳文脱二字也」とあり、神鳳元年四月の十干十二支の乙未が二十六日なので、諸葛恪伝で「二」の字が抜けているとのことです。
▼清岡美津夫さん:
>>ただ呉大帝孫権は四月としか記されていませんが、
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>古い記事なのですが、気になるところがあったのでフォローしておきます。
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>今日は司馬懿の忌日で、そういえば、サポ板の方にも忌日関連の書き込みがあるな、と読み直していました。
>そこで行き着いたのがここのツリーです。以前、とあるサイトで孫権の忌日の話が紹介されていたことを思い出し(多分、そこの慣習に沿うとリンクしない方が良いのでしませんが)、この書き込みをフォローしておきます。
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>三国志呉書呉主伝
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>(太元)二年(西暦252年)春正月、立故太子和為南陽王、居長沙;子奮為齊王、居武昌;子休為瑯邪王、居虎林。二月、大赦、改元為神鳳。皇后潘氏薨。諸將吏數詣王表請福、表亡去。夏四月、權薨、時年七十一、諡曰大皇帝。
>
>
>三国志呉書諸葛恪伝
>
>翌日、權薨。弘素與恪不平、懼為恪所治、祕權死問、欲矯詔除恪。峻以告恪、恪請弘咨事、於坐中誅之、乃發喪制服。與弟公安督融書曰:「今月十六日乙未、大行皇帝委棄萬國、群下大小、莫不傷悼。至吾父子兄弟、並受殊恩、非徒凡庸之隸、是以悲慟、肝心[土己]裂。
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>中央研究院兩千年中西暦轉換[#1825]によると、西暦252年4月16日は確かに「乙未」です(念のため確認)。
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>というわけで4月16日(旧暦)は孫権の忌日のようですね。
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