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▼陳ぐんさん:
>反董卓連合結成後に董卓は洛陽を捨てて長安に遷都していますが私の記憶では董卓
>はその後も一年余り洛陽に残って抗戦を続けていたと思います。それだけの余力がありながら董卓はなぜ長安に遷都を強行したのでしょうか。その当時かなり荒廃していた長安に遷都してしまうと再び中原に巻き返しをかけるのは相当難しくなると思われますが・・・。そこで疑問なのですが董卓の真意はいったいなんだったのでしょうか。彼の真意というのは天下を盗ることではなく長安と西涼に地方政権を築くことだったのでしょうか?
初めて書き込みさせていただきます。馬耳東風と云います、よしなに・・
突然で恐縮です。陳ぐんさんの問いかけがとっても気になったので
ちょっと自分も意見やら気になった事を書いてみたくなりまして・・
(ここの常連様のような博識は持ち合わせてはいませんが・・私事で最近三国志について調べる機会がありましたので、多少の知識は在る・・はずです)
“董卓の目的が地方政権の建設にあった”という疑問はとても興味深いです。
以前から疑問に思っていた事なのですが三国時代の次代「晋」が何故短命だったのか?と云うことです。晋朝がどんな内部問題を抱えていて、どう云ったメカニズムで滅んだのか?と云うような部分については、当方の貧しい知識では荷が勝ち過ぎて説明できませんが、一つの“答え”として・・
晋は北方騎馬民族の鮮卑によって滅ぼされて、それは中国大陸が漢民族以外によって統一された最初の事例であると云うことです。
(後漢が衰退した理由である政治構造上の内部腐敗を晋は克服できなかったのでしょうか?疑問です・・)
中国大陸は地続きですから、常に外部の侵攻の脅威があります。
しかし、隋において初めて漢民族以外の民族が大陸に統一王朝を樹立できたと云うのは何か理由がある筈です・・解りませんが。
さて、本題の董卓についてですが。
董卓は西涼の地方官ですよね。董卓は、どうも羌族とつながりが深いようで(そんなところに彼の野心が窺われます)おそらくは羌族と組んで、或いは使って?
西涼において地方政権を樹立しようとしたのかと・・
いずれにせよ董卓の基盤は西涼と羌族にある気がします。
日々強くなる外部民族の力を利用して大陸統一を狙ったのだと・・
ですから、地方政権と云うのはあくまでも一時的なもので、やはり彼の目的は中国大陸統一にあったのでしょう、当方はそう考えます。
以上、完全な私見で参考にならないかもしれませんが・・。
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