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▼1208さん:
>初めまして。1208です
>三国志を愛する諸兄に質問なのですが、王允が滅亡した後韓遂・馬騰が、新たに朝廷の権力者になった李カクに投降したと董卓伝には有ります。これは一体どう言う事なのでしょうか?
>韓遂等が叛乱したと言う記述は無いのに朝廷に降伏したと言う事は、韓遂達は190年から192年のどこかで朝廷に背いたのでしょうか?
どうも、初めまして。
それは『三国志』巻六魏書董卓伝に
是歳、韓遂・馬騰等降、率衆詣長安。
この歳、韓遂・馬騰等が降り、衆を率い長安に行く。
という記述ですね。
まず韓遂ですが、『後漢書』紀八孝霊帝紀に
(光和七年十一月)湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛、以金城人邊章・韓遂為軍帥、攻殺護羌校尉伶徴・金城太守陳懿。
(光和七年十一月、紀元184年11月)湟中義從胡北宮伯玉と先零羌が叛し、金城人辺章・韓遂を以て軍帥と為し、護羌校尉伶徴・金城太守陳懿を攻め殺した。
とありそこからずっと反乱勢力ですね。その経緯は『三国志』巻一魏書武帝紀建安二十年五月条注所引『典略』にも詳しく書かれています。
一方、馬騰は『後漢書伝』伝六十二董卓伝に
(中平三年冬)太守李相如反、與遂連和、共殺涼州刺史耿鄙。而鄙司馬扶風馬騰、亦擁兵反叛、又漢陽王國、自號「合衆將軍」、皆與韓遂合。
(中平三年冬、紀元186年冬)太守の李相如が反し、韓遂と連和し、共に涼州刺史耿鄙を殺した。耿鄙の司馬の扶風出身の馬騰はまた兵を擁し反叛し、また漢陽出身の王國は「合衆將軍」と自號し、皆、韓遂と合流した。
とあります。
※参照リンク
・西方から新たな脅威(孫氏からみた三国志25)
http://cte.main.jp/sunshi/w/w040118.html
・狄道の攻防戦(孫氏からみた三国志37)
http://cte.main.jp/sunshi/w/w060104.html
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