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川のほとりで暮らしている(孫氏からみた三国志4) |
021023
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<<名は堅、字(あざな)は文台。(孫氏からみた三国志3) 今まで紹介してきた孫氏の方々に、まず、孫鍾、その母親1)、つぎに、鍾の息子夫婦(ともに名不明)がいる。そして、その息子夫婦には、三人の息子と一人の娘がいた……つまり、鍾から見て、まごにあたる。 三人の息子たちの名は上から、羌、堅、静。前回、紹介した、成人になるとつけられる字(あざな)は、上から、聖台、文台、幼台となる。残念ながら娘の名は不明。 で、この孫の家族はいったいどこに住んでいたかというと、「富春」2)というところに住んでいたらしい。その富春は、「浙江」という川沿いにある。浙江は、簡単にいってしまうと、西から東へ流れていて、やがて海(太平洋)へと流れ着く川だ。 川といっても日本の川(一級河川とか)を想像してもらうと、大きく違ってくる。浙江は、黄河や長江と並んであげられることはないが、それでも大陸の川。しかも下流域だから、日本では見られないような、大きな川幅を持っているらしい(と、清岡は現在の浙江、つまり富春江や銭塘江ですら見たことないので)。 |
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▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)
富春は「県」の名前である。 「県」といっても現代日本の県を想像するなかれ。だいたい、今の日本の市町村に相当するんだろう(ま、清岡のイメージ的なものなので、鵜呑みはなし)。 富春県のとなりにはまた別の県があって、それらの県がいくつか集まってできた地域は、呉郡と呼ばれている。また、ここで「郡」という行政区域が出てきたけど、これも現代日本の郡を想像すると大きく違ってくる。ここでの「郡」はイメージ的に、今の日本の都道府県に相当するんだろう。 ちなみに呉郡の都は、呉県である。「呉」という文字が二つでて、紛らわしい。前々回、紹介した文台(孫堅)の母の夢に出てきた城とはこの呉県の城のこと。 後漢書郡國志によると、呉郡には十三の県(「侯國」と呼ばれる行政区域もここでは県としてカウントしている3))があって、戸数は164,106戸で、人口は770,182人、いるそうだ。さっき紹介した浙江を越えて南どなりの会稽郡が123,090戸、48,1196人で、西どなり丹陽郡が136,518戸、66,0545人だから、呉郡が戸数、人口、共に多いように思えるが、中央に近い郡に比べたり、人口密度を計算したりすると、まだまだ田舎の部類に入ると思う。 呉郡の南は浙江に面していて、北は江水(今でいう長江、揚子江のこと)、東は海(太平洋)に面している。 |
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▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)
この呉郡、会稽郡、丹陽郡、他に九江郡、廬江郡、豫章郡が集まった行政区域は「揚州」と呼ばれている。この「州」とはイメージ的に、今の日本でいう地方(例、中部地方、近畿地方)に相当するんだろう。 さらに、その州は、揚州だけではなく、他にもある。全部で十二州(下の州でいうところの中央の司隸を数えない十二州)ある。 もちろん、それぞれの州にはいくつかの郡があり、さらに各郡にはもちろん、いくつかの県がある…… |
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▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)
と、まあ、スケールの大きな話になってしまったけど、書きたいことは行政区域の大きい順に、州−郡−県と並ぶってこと(あ、これは単純化して書いていて、また、別の行政区域の区分もある)。 文台が孫鍾のように、一つの城(街)でその生涯を終えていたら、こんなことは書かなくても良いんだろうけど、実際はそうではない。 文台は、この後、広い地域を移動する人生をおくることになる。 これからの展開に乞うご期待! まぁ、まずはガクンとスケールダウンして(汗)、お次は浙江での話。 |
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