わかれ目   〇二
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「儂(わし)は皇甫義真だ。実はおまえさんを探していた」
   何か言葉を返す前に、男がそう名乗った。
   私は男を知らないが、どうやら向こうは何かしら私を知っているらしい。
「なぜ、私を?」
   率直に思ったことが口に出た。なぜ名前を知っていたかより、この男が私を探す理由を訊くのが先になってしまったようだ。皇甫義真という名まえの男は表情を変えず口を動かす。
「まぁ、そう答えを急ぐことはない。今、京師(みやこ)の民衆は、死体が転がるような惨事が昨日までで、そしてここだけで終わりだと思っている。しかし、おそらく惨事のきっかけをつくったやつは、そうは考えていない。あちこちで死体が転がるような惨事が近いうちに、そう天下のいろんなところで起こると、確信している……」
   皇甫義真は内容の熱さとは裏腹に淡々と言葉をつむいでいた。だけど、いつまでたっても、疑問が晴れないような気がしたので、思わず口を挟んでしまう。
「まさか私がこの騒ぎに関係すると?」
   いらだちからか、思ってもないことが口に出た。だけど、それは皇甫義真に変化をもたらす。皇甫義真は淡い笑みをみせる。
「今はまったく関係しない。しかし、これから深く深く関係する。儂はそう考えている」
   またも謎の言葉。皇甫義真の意図することがわからない。
「私が惨事を大きくすると?」
   この皇甫義真という男はこの私を捕まえようとしているのではないか、いやもしかすると背後で転がっている女性の遺骸のように私はなるのかもしれない、そう疑った。そう思うと男の左手にある刀にどうしても目が行ってしまう。


   この京師(みやこ)で兵乱を起こし転覆しようとする集団がいる。
   その集団に所属する人を「角道者」と呼んだ。なんでも、張角という者が広めた「道」を信じる者たちらしい。
   そんな陰謀が明るみになったもんだから、私の居ない間、京師に住む「角道者」は身分、年齢、性別に関係なく次々と捕まり殺されていったそうだ。
   そのあげく、今、背後で転がる女性のように、その場で斬り捨てられる者も珍しくなくなった。


   私は「角道者」なんかじゃない、そう叫んでも信じてもらえないような緊迫した様子だ。
   武術のたしなみはそれほど私にない。ここは確実な手を選ぶべきだ。まず男の間合いの外へ出て、人混みに隠れる。まるで声がするかと感じるぐらい、心中でそう自分で自分に繰り返し言い聞かせる。その声と同じぐらい胸の高鳴りが聞こえる。

   男の口が動く。
「そう怖がるな。おまえさんを張角の一味なんて思っちゃいない。むしろ張角たちを倒す側だ」
   信じてはだめだ、そう私は思った。いつでも後へ跳べるよう、私は身構えている。皇甫義真はだまし討ちをねらっているのかもしれない。
「私は諫議大夫、文官です。倒す側に立つような武官ではありません。だから、あなたは私のことを知りません。口から出任せです」
   言葉で突き放した。

   皇甫義真はゆっくり穏やかに息を深く吸う。その間、奇妙な静寂が流れる。
「確かに今、おまえさんは文官だ。だが、おまえさんは三年前、軍を率い、南の辺境の反乱をしずめたはずだ。だから、儂の予測ではおまえさんが今回の反乱討伐の将となる」

   皇甫義真の言うとおり、私は軍を率いた経験がある。だが、私を捕らえようとする者なら、そんなことは当然、知っていることだろう。

   義真の眼差しはまっすぐこちらに向けられていた。一見、冷たさを感じるその目の奥に、確かに熱いものを感じ取る。そのため、目の前の男が妄言や嘘のたぐいを吐いているだけなど思えないでいる。
「私にはこの反乱がそんな大規模になるとは思えません」
   体の緊張はほぐれているが、まだ警戒をといたわけじゃない。

   義真は右手で私の背後の方を指さした。
   つられて後を振り返ってしまう。当然、そこには女性の遺骸が横たわっている。
   不意打ちかと思って、すぐに視線を義真の方へ戻す。
   義真はただ遠い目をしているだけだ。彼は重々しく一呼吸する。
「おまえさんを含め、京師の人々はあの遺骸を見て、ひとまず危険は去ったと思っている。だが、危険の種は消されていない。実は四方八方へ飛び去っている。やがてそれらの種は各地で成長し、ここへ帰ってくるだろう。もちろん危険を運んでだ。今度は角道者じゃなく、儂らが無惨に通りへ棄てられる番だ…」
   やがて義真はまっすぐこちらを見つめた。私は言葉を失う。義真は再び口をひらく。
「そんな簡単に危険が京師の城壁の内側まで来るなんて思わないだろう。ところが今、京師にはそんな危険を払う力がない。おまえさんも知っているだろ?   どれだけ腐敗して脆くなっているかを?   だからおまえさんみたいに実績のあるやつが真っ先に反乱討伐の将に選ばれるのが道理だ。おまえさんが京師のわかれ目を握っている」
   義真の力強い視線に射抜かれるような心地だった。

   実績があるとはいえ、私がそんな大それた役職になるなんて想像がつかない。それに同じ反乱討伐とはいえ南の辺境とは勝手が違うだろうに…
   それに義真はそういう予言を私に言って、何の得があるんだろうか。

   だんだんと心の中で感動より疑問が大きくなっている。だけど、それをうまく言葉にできない。
「あなたはいったい何を…」
   言葉が続かない。

「おまえさんのことは記録をみれば、おおよそわかる。だけど、この目で見てみたかったんだ、実際にどんな人物か……この京師どころか天下の安全を任せられる人物か」
   義真が口にした「天下」という言葉で、背中に悪寒に似た衝撃がはしった。義真は涼しげな表情でこちらを見守っている。やがて彼はまた話し出す。
「儂の言うことが本当かどうか、近いうちに嫌でもはっきりするだろうね」

   私は義真の言葉をいつの間にか信じられるようになっていた。