三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【3700】「右脅」は「左鎖骨」?[4]  /  【3705】周瑜の漫画描いてます[0]  /  【3689】「三国演義」は晋書に影響...[3]  /  【3696】2005年以降の三国志関連書...[1]  /  【3681】『三国志研究要覧』復刊[3]  /  【2863】青龍とは?[8]  /  【3568】呂布って一体何歳くらいだ...[3]  /  【3594】長安遷都の人口移動の実情...[3]  /  【3687】中国歴代戦争史について[1]  /  【3684】三国志時代の婚儀について[2]  /  

【3700】「右脅」は「左鎖骨」?
教えて  中彎  - 2011/10/10(月) 13:56 -

引用なし
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   はじめまして。こちらでは中彎と名乗ることに致します。
中年の三國志ファンです。

正史とちくま訳との間の違いで気になったことがあり、
詳しい方にお教えいただきたく、思い切って投稿致します。

『三國志』周瑜伝で、「赤壁」のあとの対曹仁江陵攻防戦の場面、
周瑜は負傷しますが、その様子について、

中央研究院 漢籍電子文獻 によれば、

會流矢中右脅

となっており、対してちくま学芸文庫の訳では、

流れ矢が左の鎖骨に命中し、

とされています。

左右が逆のように思うのですが、これで正しいのでしょうか。
それとも「左右」について、今と違う用法があったのでしょうか。

【3701】Re:「右脅」は「左鎖骨」?
多分…  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/10/10(月) 18:09 -

引用なし
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   初めまして、清岡です。

それは初耳でしたので、何刷等を考えず、一応、手元にあるハードカバーの『世界古典文学全集24 三国志』(筑摩書房)、文庫の『正史 三国志』(筑摩書房)で確認すると、おっしゃるとおり、「左の鎖骨」となっていますね。

それに対して原文の『三国志』(中華書局)、『三国志集解』(藝文印書館)で確認すると、おっしゃるとおり、「右脅」となっていますね。
念のため、『太平御覧』で確認すると、卷三百七十一 人事部十二 脅の項目に件の箇所が引用されており、やはり「右脅」となっていました。

左右の違いはともかく、「脅」を『CD-ROM版 字通』で引いてみると、訓義の「1」が「わき、わきばら、あばら、かたわら」となっており、さらに『説文』の「両膀なり」を引き「両脇の意とする」と書かれてあり、特に「肩」という意味はありませんでした。

まさかと思い、『三国演義』(毛本、電子文献)を見ると、「第五十一回:曹仁大戰東呉兵、孔明一氣周公瑾」に「周瑜急勒馬回時、被一弩箭、正射中左肋、翻身落馬。」とあり、左右の違いはありますが、「左肋」とあばらを意味する言葉が出ています。

もしかして版によっては「左の鎖骨」を意味する言葉になっているかもしれませんが、通行する『三国志』では「右脅」で良いと思います。訳す人の所へ渡った文が違ったものになっていたか、渡った時に情報損失(原文の字が潰れていた等)があったんでしょうかね。『三国志』の訳は他にも徳間書店のものがあるそうですので、念のためにそれで確認するとよいかもしれません。但し私はそれに『三国志』巻五十四呉書周瑜伝の訳が載っているかどうか未確認です、すみません。


あと当時と今ではおっしゃるとおり左右の概念が違うという可能性がありますね。例えば、主体視点の左右か、主体と向かい合った客体視点の左右かと言うことですね。
時代の近い『礼記』(とは言っても成立が数百年遡りますが)を読む限り、左右の概念は今と同じだと存じます。そこには前後左右以外にも東西南北が記されていて、矛盾無く読めますので。

▼中彎さん:
>はじめまして。こちらでは中彎と名乗ることに致します。
>中年の三國志ファンです。
>
>正史とちくま訳との間の違いで気になったことがあり、
>詳しい方にお教えいただきたく、思い切って投稿致します。
>
>『三國志』周瑜伝で、「赤壁」のあとの対曹仁江陵攻防戦の場面、
>周瑜は負傷しますが、その様子について、
>
>中央研究院 漢籍電子文獻 によれば、
>
>會流矢中右脅
>
>となっており、対してちくま学芸文庫の訳では、
>
>流れ矢が左の鎖骨に命中し、
>
>とされています。
>
>左右が逆のように思うのですが、これで正しいのでしょうか。
>それとも「左右」について、今と違う用法があったのでしょうか。

【3702】矢傷が死因となった可能性
感謝♪  中彎  - 2011/10/14(金) 6:58 -

引用なし
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   清岡様

質問者の中彎です。

お礼が遅れました。書き込んですぐに、とても詳しいご回答をいただき、
感激しております。ありがとうございました。

「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
つまり右腕を挙げていたと想像されます。
右手で掲げていたのは、剣でしょうか。
矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
当時呉にはなかったのでしょうか。

周瑜の受傷部位などと言う、些末なことに関心を持った理由は、
もしかしたらこれが彼の死因になったかもしれない、と想像したからです。

『三国志』周瑜伝には、孫策と同じ年と書かれており、
だとすれば生年は、西暦175年でしょう。
同じく周瑜伝には、死亡時36歳、とありますので、
西暦210年に死去したことになります。

『赤壁』の決着が『三国志』武帝紀をみると陰暦で西暦208年12月のようで、
その後江陵攻防に移るのですが、
呉主伝ではこれが1年あまり続いたように書かれています。

はじめは夷陵の攻防があったりして、そのあとのことですから、
周瑜受傷の時期は、江陵戦の終結近くでしょう。

すると、受傷から死去まで、長く見ても1年程度と見積もられるのではないでしょうか。
その間周瑜は「劉備に宮室」の謀略を提案したりはしますが、たぶん陣頭には立たず、
久しぶりに戦場へ出ようとして、ほどなく病死したように見えます。

矢傷自体からは生き延びたが、体の奥に化膿巣が残り、
後にそこから全身に波及して、というようなストーリーを考えてしまいます。
正面から矢を受けるよりも体側部の方が、即死を免れるチャンスが高い気がします。

言いたい放題の長文、失礼致しました。▼清岡美津夫さん:

【3704】Re:矢傷が死因となった可能性
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/10/15(土) 0:19 -

引用なし
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   こんばんわ。

さすがに周瑜の死因まではすぐに考えが及びませんが、それ以外ではあれば、お役に立てそうな分は返信致しますね。


▼中彎さん:
>「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
>右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
>つまり右腕を挙げていたと想像されます。
>右手で掲げていたのは、剣でしょうか。

周瑜は将士ですので、指麾に使う旄を持っていたかもしれませんね。
あと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にあるこの「瑜親跨馬擽陳」に似た表現を含むのに、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「身跨馬櫟陳、手撃急鼓」という表現がありますので、鼓を持っていたかもしれません。

それと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にある「會流矢中右脅」の「流矢」についてですが、何年か前に個人サイトのコンテンツかコミュニティかで、「流矢」の意味を日本語のそれと同じ意味ではないのではないかといった話が出ていました。
つまり、「流矢」を「流れ矢」、つまり目標から「逸れた矢」としての意味ではないという話です。
当時は単になるほどな、と思ったぐらいで特に論拠等に当たりませんでした。
今、『三国志』およびその注に当たると、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「弓弩並發、流矢雨集、」(弓と弩が並び発し、流矢が多く集まり、)という表現があって、少なくともここでは少量の「逸れた矢」といった意味でなく大量の「流れる矢」の意味として出ていますね。

>矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
>筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
>当時呉にはなかったのでしょうか。

鎧に関しては下記の「奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ」にある小林謙一「東アジアにおける武器・武具の比較研究」(平成16年度〜平成19年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書(課題番号16520478)、2008年7月)のP.14からの「IV 中国の甲冑」が参考になるかと思います。それを読むと筒袖鎧には程遠いように思えますね。

・XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
http://repository.nabunken.go.jp/

・東アジアにおける武器・武具の比較研究 - XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/detail.php?item_id=1199

【3707】深謝
感謝♪  中彎  - 2011/10/22(土) 8:56 -

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   お礼が遅れましたことをお詫び致します。
先の独り言みたいな書き込みにまで、ご丁寧なご返事をいただき、痛み入ります。
清岡さまの博識と親切に、あらためて感服致しました。
あるいは偶然に武装が、現在清岡さまのご関心分野でしたでしょうか。
とても勉強になりました。ありがとうございました。

『流矢』については、以前読んだことがあったのをご指摘で思い出しました。
高島俊男氏著『三国志 きらめく群像』(ちくま文庫)の、龐統の箇所です。
その後どこだか失念しましたが、ネット上の議論で、「必ずしも大量の矢の群れだけでなく、目標を逸れた矢の用途もある」という発言をみた気もします。
ともかくそうなると、周瑜は一本だけでなく、複数の矢を受けたのかも知れませんね。

鎧についても、とても勉強になりました。当時の鎧が多数の札を綴じたものだとは、
篠田耕一氏の『三国志軍事ガイド』(新紀元社)などで知りましたが、
何となくこれまでもっと自由に折りたためるものと考えていましたので、胴部の大半が上下方向に固定されていたとは意外でした。

また機会がありましたらぜひご教示お願い致します。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>さすがに周瑜の死因まではすぐに考えが及びませんが、それ以外ではあれば、お役に立てそうな分は返信致しますね。
>
>
>▼中彎さん:
>>「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
>>右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
>>つまり右腕を挙げていたと想像されます。
>>右手で掲げていたのは、剣でしょうか。
>
>周瑜は将士ですので、指麾に使う旄を持っていたかもしれませんね。
>あと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にあるこの「瑜親跨馬擽陳」に似た表現を含むのに、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「身跨馬櫟陳、手撃急鼓」という表現がありますので、鼓を持っていたかもしれません。
>
>それと『三国志』巻五十四呉書周瑜伝にある「會流矢中右脅」の「流矢」についてですが、何年か前に個人サイトのコンテンツかコミュニティかで、「流矢」の意味を日本語のそれと同じ意味ではないのではないかといった話が出ていました。
>つまり、「流矢」を「流れ矢」、つまり目標から「逸れた矢」としての意味ではないという話です。
>当時は単になるほどな、と思ったぐらいで特に論拠等に当たりませんでした。
>今、『三国志』およびその注に当たると、『三国志』巻四十六呉書孫討逆伝の注に引く『呉録』に載る孫策の表に「弓弩並發、流矢雨集、」(弓と弩が並び発し、流矢が多く集まり、)という表現があって、少なくともここでは少量の「逸れた矢」といった意味でなく大量の「流れる矢」の意味として出ていますね。
>
>>矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
>>筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
>>当時呉にはなかったのでしょうか。
>
>鎧に関しては下記の「奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ」にある小林謙一「東アジアにおける武器・武具の比較研究」(平成16年度〜平成19年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書(課題番号16520478)、2008年7月)のP.14からの「IV 中国の甲冑」が参考になるかと思います。それを読むと筒袖鎧には程遠いように思えますね。
>
>・XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
>http://repository.nabunken.go.jp/
>
>・東アジアにおける武器・武具の比較研究 - XooNIps - 奈良文化財研究所 学術情報リポジトリ
>http://repository.nabunken.go.jp/modules/xoonips/detail.php?item_id=1199

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【3705】周瑜の漫画描いてます
 鳳頼英知 WEB  - 2011/10/16(日) 2:44 -

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   三国志ファンの方々
はじめまして
鳳頼英知と申します

僕は三国志と出会ってからずっと呉のファンで
9月から無料WEB連載漫画「美周郎」の連載を
スタートいたしました!

歴史漫画と言うよりは少年漫画の冒険物みたいな感じですが
良かったら読んでやって下さい

壮大な音楽に乗せたプロモーション動画は必見です!

下記URLで無料で公開しています

http://bishuro.org/

動画はこちら
http://www.youtube.com/watch?v=GfraWbwc6a4

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【3689】「三国演義」は晋書に影響を与えたのか?
初心者質問  R・F  - 2011/6/30(木) 15:30 -

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   質問です。

一部にしか目を通していないのですが、以前から、「晋書」には正史でありながら妙に司馬氏に批判的な内容が目に付くように感じていました。

ウィキメディアの項。
「晋書」には
房玄齡伝の評語でも『晋書』を編纂した史官は文学人が多かったため、怪しげな話を採用し、広く異聞を集めるのを好んだ。その記述態度は奇抜になり、正確であることを求めなかったとする。

とあります。
気になったのは「史官は文学人が多かった」の一言。

「三国演義」の正確な成立は不明ですが、宋代に講釈が行われていたという記録があるそうで、唐の頃にも講談があったのではないかとの推測も聞いたことがあります。

そこで質問ですが。
「晋書」が作成される唐の頃には、すでに「三国演義」は知られていて、その内容が「晋書」の内容に影響を与えた(例えば、司馬懿は曹操の生存時から簒奪を目論んでいた等)ことはないのでしょうか。

ご教示を宜しくお願いいたします。

【3691】Re:「三国演義」は晋書に影響を与えたのか...
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/7/23(土) 1:52 -

引用なし
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   こんばんわ。
以下、前提条件や共通認識の確認になります。

一般的に羅貫中『三国演義』の成立は[#?元末明初]と言われいます。例えば、下記の中林史朗先生の論文の冒頭では「明の羅貫中が著した章回小説『三国志演義』」という表現です。

・日本人に於ける三国志とは
http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/nanjyaina.html

その成立については、下記の論文の冒頭で「小説『三国志演義』のストーリーが、宋元明の講唱文芸「説三分」(1)の中で醸成されたものであることは中国文学史の常識に属すると言ってよいが、」とあり、おっしゃる宋代では『三国志演義』は未だ成立してないとするのが一般的です。

上田望「人はなぜ三国志の物語を「唱う」のか:詩讃体購唱文芸に見える三国故事作品の生成と流通について」(金沢大学中国語学中国文学教室紀要 6, 69-97, 2003-03-30)
http://hdl.handle.net/2297/1029

また、下記のような有名どころ(劉備が敗れると子どもが泣き曹操が敗れると喜ぶってやつです)にありますように、おっしゃるとおり宋代の講談の類で三国のことがありますが、それは小説の『三国演義』ではありません。

・蘇軾『志林』巻一「懷古 塗巷小兒聽説三國語」
王彭嘗云:「塗巷中小兒薄劣、其家所厭苦、輒與錢、令聚坐聽説古話。至説三國事、聞劉玄徳敗、顰蹙有出涕者;聞曹操敗、即喜唱快。以是知君子小人之澤、百世不斬。」彭、[小豈]之子、為武吏、頗知文章、余嘗為作哀辞、字大年。

なにか『三国演義』を誤解されているような印象を受けましたので、認識確認のために書きました(逆に、投稿された意図に対する私の認識が誤っている可能性もありますし)。

▼R・Fさん:
>質問です。
>
>一部にしか目を通していないのですが、以前から、「晋書」には正史でありながら妙に司馬氏に批判的な内容が目に付くように感じていました。
>
>ウィキメディアの項。
>「晋書」には
>房玄齡伝の評語でも『晋書』を編纂した史官は文学人が多かったため、怪しげな話を採用し、広く異聞を集めるのを好んだ。その記述態度は奇抜になり、正確であることを求めなかったとする。
>
>とあります。
>気になったのは「史官は文学人が多かった」の一言。
>
>「三国演義」の正確な成立は不明ですが、宋代に講釈が行われていたという記録があるそうで、唐の頃にも講談があったのではないかとの推測も聞いたことがあります。
>
>そこで質問ですが。
>「晋書」が作成される唐の頃には、すでに「三国演義」は知られていて、その内容が「晋書」の内容に影響を与えた(例えば、司馬懿は曹操の生存時から簒奪を目論んでいた等)ことはないのでしょうか。
>
>ご教示を宜しくお願いいたします。

【3693】Re:「三国演義」は晋書に影響を与えたのか...
 R・F  - 2011/8/7(日) 23:00 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん:

レスをありがとうございます。
表現が舌足らずで申し訳ありません。

『三国演義』の元になった講釈が、唐の時代にはすでに存在していて、それが晋書に影響を与えたのではないかということです。

宋代には「説三分」という講談があったという記録が雑記の中にあるそうです。
内容については、不明ですが、個人的に元代に成立した「三国志平話」のタネではなかったかと想像しています。

唐代には、講談が庶民の娯楽として成立していたという話を聞きますので、『三国志』を元にしたあ講談もあったのではないか、ということです。

なぜ、そう思ったかと云うと。

「晋書 高祖宣帝懿紀」
http://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html

王導から宣帝の行状を聞いた(東晋の)明帝は顔を寝台に伏して言った。「もしあなたの言うとおりなら、晋の国祚も長くはあるまい」。宣帝の猜疑心と残忍さとを辿るに、まさしく狼顧の相がさし示すとおりのものであった。という言葉。

また、最後の(唐の太宗李世民による)講評が、余りにも酷かったからです。
ここまで貶さなくとも、と思えるほど酷評しています。

その理由を『三国演義』というか、世間に流布していたかもしれない講談にあるのではないかと想像したわけです。

自分でもかなり無理のある論理とは思いますが、李世民がそこまで酷評したこと等が不思議だったので質問させていただきました。

【3703】Re:「三国演義」は晋書に影響を与えたのか...
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/10/14(金) 23:02 -

引用なし
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   こんばんわ。

すっかり返信する機を逸してしまいましたが、めげずに初見で感じたことを書き記しておきます。

具体的な記述等の何の予備知識もなく、それらを知れば、『晋書』から講談、『三国演義』に情報が流れていると考えるのが自然と思うのですが、それを敢えて逆に考える理由がよく理解できませんでした。


▼R・Fさん:
>▼清岡美津夫さん:
>
>レスをありがとうございます。
>表現が舌足らずで申し訳ありません。
>
>『三国演義』の元になった講釈が、唐の時代にはすでに存在していて、それが晋書に影響を与えたのではないかということです。
>
>宋代には「説三分」という講談があったという記録が雑記の中にあるそうです。
>内容については、不明ですが、個人的に元代に成立した「三国志平話」のタネではなかったかと想像しています。
>
>唐代には、講談が庶民の娯楽として成立していたという話を聞きますので、『三国志』を元にしたあ講談もあったのではないか、ということです。
>
>なぜ、そう思ったかと云うと。
>
>「晋書 高祖宣帝懿紀」
>http://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html
>
>王導から宣帝の行状を聞いた(東晋の)明帝は顔を寝台に伏して言った。「もしあなたの言うとおりなら、晋の国祚も長くはあるまい」。宣帝の猜疑心と残忍さとを辿るに、まさしく狼顧の相がさし示すとおりのものであった。という言葉。
>
>また、最後の(唐の太宗李世民による)講評が、余りにも酷かったからです。
>ここまで貶さなくとも、と思えるほど酷評しています。
>
>その理由を『三国演義』というか、世間に流布していたかもしれない講談にあるのではないかと想像したわけです。
>
>自分でもかなり無理のある論理とは思いますが、李世民がそこまで酷評したこと等が不思議だったので質問させていただきました。

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【3696】2005年以降の三国志関連書籍
教えて  もう1度三国志  - 2011/8/27(土) 19:20 -

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   2005年以降の三国志関連の書籍(ジャンル問わず)でおすすめの物を教えて頂けないでしょうか?

初めまして。
いきなり変なお願いをして申し訳ありません。
私は2005年くらいまで三国志にはまっていたのですが、私生活が忙しくなり徐々に遠ざかってしまい、それ以来ほぼ三国志に触れずに生活してきました。

しかし、最近、書店で三国志の文字を見て、久しぶりに三国志にどっぷり浸かりたくなりました。
昔、買った本を実家から送ってもらい、まずはそれを読みなおしているのですが、もちろん新しい本も読んでみたいです。

そこで、皆さんに2005年以降に発売された三国志関連の書籍でおすすめの物があれば是非教えて頂きたいのです。
ジャンルは一切問いません。漫画から専門書までどんなものでもお願いしたいです。

どうか、私に新しい三国志との出会いのチャンスを提供していただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。

【3699】Re:2005年以降の三国志関連書籍
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2011/9/19(月) 17:33 -

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   初めまして。

全部が2005年以降って訳じゃないですが、一度、三国志関連に触れられたのであれば、東洋史関連であれば、福原啓郎/著『西晉の武帝 司馬炎』(白帝社1995年)、中国文学関連であれば、金文京/著『三国志演義の世界 増補版』(東方書店2010年)がおすすめでしょうかね。

・西晉の武帝 司馬炎
http://www.hakuteisha.co.jp/books/232-4.html

・国内書 三国志演義の世界 増補版【中国・本の情報館】東方書店
http://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=4497210098&bookType=jp


▼もう1度三国志さん:
>2005年以降の三国志関連の書籍(ジャンル問わず)でおすすめの物を教えて頂けないでしょうか?
>
>初めまして。
>いきなり変なお願いをして申し訳ありません。
>私は2005年くらいまで三国志にはまっていたのですが、私生活が忙しくなり徐々に遠ざかってしまい、それ以来ほぼ三国志に触れずに生活してきました。
>
>しかし、最近、書店で三国志の文字を見て、久しぶりに三国志にどっぷり浸かりたくなりました。
>昔、買った本を実家から送ってもらい、まずはそれを読みなおしているのですが、もちろん新しい本も読んでみたいです。
>
>そこで、皆さんに2005年以降に発売された三国志関連の書籍でおすすめの物があれば是非教えて頂きたいのです。
>ジャンルは一切問いません。漫画から専門書までどんなものでもお願いしたいです。
>
>どうか、私に新しい三国志との出会いのチャンスを提供していただけないでしょうか。
>よろしくお願いいたします。

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【3681】『三国志研究要覧』復刊
話題提供  からんだっしゅ  - 2011/5/16(月) 15:51 -

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   宣伝になってしまうかも知れないので、不適切ならお知らせ願います。
長らく在庫切れだった『三国志研究要覧』中林史朗・渡邉義浩 著(新人物往来社)が近く復刊されます。
最新の研究については反映されてない様なのが残念ですが、出版不況といわれる昨今、手に入る時に手に入れないと二度とお目にかかれない可能性があるので、興味がある方はどうぞ。
詳細は、復刊ドットコム(http://www.fukkan.com/) まで。

【3682】Re:『三国志研究要覧』復刊
 清岡美津夫  - 2011/5/16(月) 20:12 -

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   ▼からんだっしゅさん:
>宣伝になってしまうかも知れないので、不適切ならお知らせ願います。
>長らく在庫切れだった『三国志研究要覧』中林史朗・渡邉義浩 著(新人物往来社)が近く復刊されます。
>最新の研究については反映されてない様なのが残念ですが、出版不況といわれる昨今、手に入る時に手に入れないと二度とお目にかかれない可能性があるので、興味がある方はどうぞ。
>詳細は、復刊ドットコム(http://www.fukkan.com/) まで。

こんばんわ。
どうも、お知らせありがとうございます。
http://cte.main.jp/rule.html
↑ルールを読むと、三国志に関係することですので特に問題ないかと思います。
それに過去、『[#?三国志研究要覧]』はこの掲示板でも触れられていますし話題性は高いと思います。

どうせだったら、復刊ドットコムの該当ページへリンクを張った方が利便性が高いと思います……と下にリンクしました。

・『三国志研究要覧(中林史朗・渡邉義浩)』 販売ページ
http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68319351

あと関係する出版社のサイトへもリンクしておきます。
今、見ると、まだ紹介のウェブページはありませんね(復刊だからページが作成されないかもしれませんが)。

・歴史に学び、時代を読み解く。歴史総合出版:新人物往来社
http://www.jinbutsu.co.jp/

【3683】Re:『三国志研究要覧』復刊
感謝♪  からんだっしゅ  - 2011/5/21(土) 15:51 -

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   清岡美津夫さん:

見やすく整理して下さってありがとうございます。

関係ないですが、新人物往来社って初心者向けの歴史関係の読み物をたくさん出してる出版社というイメージでしたが、月岡芳年の本とかドイツ人外交官の回想録の邦訳とかいろいろ手掛けているのですね。

【3698】Re:『三国志研究要覧』復刊
 黄虎洞  - 2011/9/14(水) 20:23 -

引用なし
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   9月に復刊されました。
復刊ですので、全く形態も書式も初版と同じです。
執筆者の肩書き等も当時のままです。
「一切何も手を加えない」と言うのが、復刊の条件でした。
唯一異なるのは値段でしょうか。
初版は1990年までの文献を集めましたので、
その後の20年間の新しい資料は含みません。

小生も老人になりましたので、
誰か新資料を追加した「増補云々」を出してくれると嬉しいのですが、
資料を集めて追加しようなどと言う、暇人の若手も周囲にはいませんので、
増補版は、気が向いたときに出せるかもしれません。

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【2863】青龍とは?
教えて  如墨委面  - 2007/7/30(月) 0:34 -

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   ちょっと突拍子もない質問をします。

『魏志』明帝紀の青龍元年の条に、

「青龍元年春正月甲申、青龍見[夾β]之摩陂井中。二月丁酉、幸摩陂觀龍。於是改年、改摩陂為龍陂」

青龍元年正月に[夾β]県の摩陂の井の中に青龍が現れた。二月に明帝が摩陂へ行幸して龍を見た。そこで、年号を青龍と改め、摩陂の地名を龍陂と改めた。

という記事があります。

『三国志』を読んでいると、龍が現れたとか鳳凰が現れたとかいった瑞祥の記事をよく見かけますが、この記事には、ただ龍が現れたというだけでなく、その龍を明帝が見たと書いてあります。

そこで質問なのですが、この明帝が見た龍とは一体何なんでしょう。何か、龍が現れたといえるような現象があったのでしょうか。まさか青色のトカゲが現れた、ということではないと思いますが……

どうでもよいことかも知れませんが、どうも気になって仕方がありません。推測でも結構ですから、どなたか教えてください。

                   委面如墨

【2870】Re:青龍とは?
 如墨委面  - 2007/8/1(水) 7:45 -

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    『明帝紀』には、龍の出現は、青龍元年の記事しかないようです。そこで、これより後の龍の出現を『三少帝紀』で追ってみました。

 司馬懿の後を継いだ司馬師(司馬景王)は、正元元年(254)九月に魏帝の斉王(曹芳)を廃しています。そして高貴郷公(曹髦)が魏帝になりました。この後、龍の出現報告が頻出します。

正元元年(254)十月戊戌、黄龍見于[業β]井中。
甘露元年(256)正月辛丑、青龍見[車只]縣井中。
甘露元年(256)六月乙丑,青龍見元城縣界井中。
甘露二年(257)二月、青龍見温縣井中。
甘露三年(258)是歳、青龍・黄龍仍見頓丘・冠軍・陽夏縣界井中。
甘露四年(259)正月、黄龍二見寧陵縣界井中。※
景元元年(260)十二月甲申、黄龍見華陰縣井中。
景元三年(262)二月、青龍見于[車只]縣井中。

 甘露四年正月の記事(※)の後には、斐松之の次の注があります。

漢晉春秋曰、是時龍仍見、咸以為吉祥。帝曰、龍者、君徳也。上不在天、下不在田、而數屈於井、非嘉兆也。仍作潛龍之詩以自諷、司馬文王見而惡之。

漢晉春秋はいう。このとき、しきりに龍が現れるのを、みな吉祥となしたが、帝(高貴郷公)は「龍は君主の徳をあらわすものである。それが上は天にいず、下は田にいないで、しばしば井戸の中に屈しているのは、めでたいきざしではない」と言って、潜龍之詩を作って自分の皇帝としての徳を風刺した。司馬文王(司馬昭)は見てこれを憎んだ。

 この後、甘露五年(260=景元元年)五月に高貴郷公は司馬昭に対してクーデターを起こして殺されました。年二十でした。次の皇帝は陳留王(常道郷公曹奐)がなりました。
 司馬昭は景元五年(264=咸熙元年)に晋王になりましたが、翌咸熙二年(265)八月に逝去しました。そして、その跡を継いで晋王になった息子の司馬炎は、その年の十二月に皇帝の陳留王曹奐から禅譲を受けて皇帝(晋の武帝)になりました。

 こうしてみると、『三少帝紀』の時期の龍の出現は、司馬氏の帝位簒奪の雰囲気作りのために仕組まれたもののように見えます。こんな報告は司馬氏の息がかかった官吏にさせれば、いくらでもできます。
 高貴郷公が潜龍之詩を作り、司馬昭がこれを憎んだというのも、龍の出現の報告が司馬昭によって仕組まれたものだとすれば、納得がいきます。

 ですから『明帝紀』の、明帝がわざわざ行幸して龍を見た上で改元したという記事が、非常に気になるわけです。それとも、これは明帝が一枚かんでいた芝居だったのでしょうかね。
 つまり、潜龍之詩は、皇帝とは名ばかりで何の権限もなかった高貴郷公の鬱屈した気持の現れだったのでしょうが、明帝の場合は立場が違いまから、龍の出現が皇帝の徳をあらわすと考えて、一芝居打ったと考えられなくもないという気がします。

                   委面如墨

【2875】Re:青龍とは?
 如墨委面  - 2007/8/5(日) 20:02 -

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   > 『明帝紀』には、龍の出現は、青龍元年の記事しかないようです。

 これは私の間違いで、もう一つありました。

景初元年(237)春正月壬辰、山荏縣言黄龍見。

 ここに景初元年正月とあるのは青龍五年正月のことですが、魏では、この龍の出現を契機に改暦の論議が起こり、青龍五年三月を景初元年四月とする改元が行われたため、遡って景初元年と記載されたものです。

 この青龍五年三月を景初元年四月とするとはどういうことかについて、簡単に書いておきます。

 当時、王朝は天地人の三統によって暦を循環させるという思想がありました。中国古代の夏王朝は天統なので、夏暦は太陽暦の二月が正月、殷王朝は地統なので、殷暦は一月が正月、周王朝は人統なので、周暦は十二月が正月とされてきました。
 そして、漢は天統を得ているので夏暦によっていました。ところが、魏は地統を得ているにもかかわらず、漢から禅譲を受けた後、そのまま夏暦を使っていたので、景初の改元と同時に、月を一ヶ月ずらして殷暦にしたというわけです。
 ところが、明帝は、景初三年一月一日に崩御しました。そのため、これ以降、殷暦だと毎年正月元日が明帝の命日ということになって非常に都合が悪いことになります。そこで、景初三年十二月に詔勅を出して、十二月の次に後十二月を置き、その翌月を正始元年正月し、殷暦を夏暦に戻す変更を行いました。
 つまり、景初年間だけは、暦の月が現在の太陽暦とほとんど同じだったということになります。

 ちなみに、この夏暦、殷暦、周暦というのは、正月をどの月に置くかという問題であって、暦法ではありません。暦法というのは、暦日を計算する公式のようなものですが、ややっこしいことに、魏はこの改元のときに、暦法も、それまでの太和暦から景初暦に変更しています。この景初暦は、晋の時代にも泰和暦と名前をかえただけで引き続き使われました。

                   委面如墨

【3218】Re:青龍とは?
 天雀 E-MAILWEB  - 2008/9/22(月) 10:14 -

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   青龍とは、私が推測するに、稲妻では?

朱雀、青龍、白虎、玄武
4方を守るものですので、巨大なものだと考えると稲妻がぴったりでは?
闇に光る稲妻は、時には青く見えませんか?
また、天から地への下龍や雲から雲へと、まるで生きているように見えませんか?

地震=玄武、雷=青龍、火事=朱雀、オヤジ=白虎(自爆)

お粗末でした。m(__)m

▼如墨委面さん:
>ちょっと突拍子もない質問をします。
>
>『魏志』明帝紀の青龍元年の条に、
>
>「青龍元年春正月甲申、青龍見[夾β]之摩陂井中。二月丁酉、幸摩陂觀龍。於是改年、改摩陂為龍陂」
>
>青龍元年正月に[夾β]県の摩陂の井の中に青龍が現れた。二月に明帝が摩陂へ行幸して龍を見た。そこで、年号を青龍と改め、摩陂の地名を龍陂と改めた。
>
>という記事があります。
>
>『三国志』を読んでいると、龍が現れたとか鳳凰が現れたとかいった瑞祥の記事をよく見かけますが、この記事には、ただ龍が現れたというだけでなく、その龍を明帝が見たと書いてあります。
>
>そこで質問なのですが、この明帝が見た龍とは一体何なんでしょう。何か、龍が現れたといえるような現象があったのでしょうか。まさか青色のトカゲが現れた、ということではないと思いますが……
>
>どうでもよいことかも知れませんが、どうも気になって仕方がありません。推測でも結構ですから、どなたか教えてください。
>
>                   委面如墨

【3697】Re:青龍とは?
 通りすがり  - 2011/8/27(土) 19:28 -

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   私も前から、この記事が気になっていたのですが、
皆さんのおっしゃる通り、この頃、井戸の中に龍が現れたという記事が多く見られます。一字一字辞書を引き直していくと、『漢語大詞典』の「井」の項目に、漢代の墓から出土した陶製の井戸の図があります。
この図から、当時の井戸には屋根があったことが分かります(もちろん、全てではないでしょうが)。

次に、日本史で井戸に龍が現れた事件があったか考えましたが、史書を読み込んでいるわけではないので、分かりません。
しかし、ネットを検索すると、緇井鶏子(しい けいこ)さんという方のブログに大阪の四天王寺の龍の井戸について興味深いことが書かれていました。

>水屋の天井に龍が描かれていて その姿が井戸の底に映って見えるそうです 
>井戸の中に龍の像を入れてもだめで 天井画を水面に映す 
>という 

これは何が起源なんでしょうか?
あくまで想像ですが、当時も井戸の屋根に細工をして龍の絵を水面に写していた可能性もあるのかなと思いました。
あまり、辞書に載っている図はあまりよく見ないこともありますが、やはり情報として重要ですね。
参考にならないかもしれませんが、とりあえず投稿しておきます。

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【3568】呂布って一体何歳くらいだと思いますか
雑談  清水  - 2010/1/14(木) 9:13 -

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   ・呂布奉先は一体何年生まれくらいだと思いますか。正史上にかくたる記述はない物と思いますが。皆さんのイメージでも結構ですので。
・ちなみに私の小説中では呂奉先は熹平三年生まれと設定してあります。これは若すぎるようにも思うとは感じますが、呂奉先と貂蝉が五原郡九原県の同郷である。幼なじみとして育つ上で自分の中で無理のない年齢差。と言う事で貂蝉が初平二年で十六才という点から決定しました。
・自作の小説では逆に曹操、孫堅が老年に近い老獪な武将として登場します。司馬懿も老練な、且つ大漢に忠実な武将として登場させるつもりです。
もし、この話題が以前にも論述された事があれば、参照教えていただければさいわいです。

【3569】Re:呂布って一体何歳くらいだと思いますか
 紅砂  - 2010/1/21(木) 19:02 -

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    こんばんは。
 実に根拠のない妄想ですが……

 私の中では勝手に「呂布は死ぬ頃、きっと五十代前半なんだろうな」なんて考えてました。本当になんの根拠もありませんが(滝汗)誰か間違っていたら教えてください。

 ちなみに貂蝉は17歳くらいです。確かに現代の感覚でいけば、「女子高生と中年のおじさん」ですが、あの時代ならよくあったことなのでは、と思ってしまいます。決して呂布がロリコンとかではないんです。

 どうでもいいことですが、ビジュアル的には「らんま2/1」の早乙女玄馬で妄想してます(笑)。

 小説、頑張って書いてくださいね。

【3695】Re:呂布って一体何歳くらいだと思いますか
 通りすがり  - 2011/8/26(金) 16:21 -

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   紅砂さんへ

私も想像ですが、呂布の享年は40代、或いは紅砂さんがおっしゃるように、50代かと考えています。確たる根拠はありませんけど。

以前はもっと若いのかと思っていたので、筑摩の正史三国志などを読んでみて意外でした。捕まったときには、長い籠城戦のために疲労でやつれていたでしょうし、無精ひげも生やしていたでしょう。イメージより老けた感じだったのではなかったかと想像します。でも、曹操に自分を売り込む気力は残っていました。生への執着と言うと、良い意味にも悪い意味にもとれますが、自分の人生はまだ終わっていない。また一旗揚げるんだ!という粘り強さが凄いですよね。曹操は生かそうかどうか 少し迷ったぐらいです。
歴史にifはないと言いますが、呂布が生かされていたらどうなっていたことでしょうか。

【3694】Re:呂布って一体何歳くらいだと思いますか
多分…  通りすがり  - 2011/8/26(金) 15:35 -

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   清水さんへ

熹平三年は、西暦174年ですね。

呂布の生年は、正確には分かりませんが、延熹4年(161)以前ではないかと私は勝手に考えています。これは劉備の生年です。

なぜなら、『三国志』呂布伝の注に、呂布が劉備のことを「弟と呼んでいた」とありますし、呂布自身が、第三者に向かって「劉備は私の弟」と発言している記述があるからです。死の真際には劉備のことを「児」と罵っていますが、これは主に年下の相手に使う罵語の「竪子」(小僧)と同義です。

また、張飛伝に「関羽が数歳年上だったので、張飛は実の兄に対するように接した」とあるように、義理の兄弟は、当時もやはり年齢の上下で兄か弟かを決めていたと考えられます。

よって、呂布は劉備より年上ではないかと推測されます。
ただ、どれくらい年が離れていたかは分かりません。
劉備の生年は、延熹4年(161)です。
したがって、呂布が生まれたのは、少なくとも劉備の生年である延熹4年(161)以前ではないかと考えられます。

以上から推測しますと、初平二年(191)ですと、呂布は大体30歳過ぎぐらいですね。また、建安三年(199)に刑死していますので、享年は40歳前後だと推測します。

これは、呂布が当時の社会の慣習(長幼の序)に従っていたことを前提にしています。董卓と義理の親子となっていますので、一応、この慣習は守っていたのではないかと思います。熹平三年(174)の方だと、享年は20代半ばですので、そちらの方がより劇的かもしれません。


メモ

曹操(155〜220)
呂布(161以前?〜199)
劉備(161〜223)
 
※呂布が曹操より年上か、同年か、年下かは分かりません。

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【3594】長安遷都の人口移動の実情について
 スサノオ  - 2010/2/25(木) 9:53 -

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   度々失礼します。
董卓による洛陽から長安への遷都に伴う強制的な人口移動についてお尋ねします。
その数、数百万とも言われますが、実情はどのようなものだったのでしょうか。
明確な資料の残る140年当時(長安遷都の50年も前の資料ですが)の戸籍上人口は、洛陽のある河南で101万、司隷全体でも310万、総人口で4789万となっています。
如何に洛陽が大都市且つ首都だったとしても当時の社会構成からみて郡の人口の30%も居れば多いくらいでしょう。
勿論、現在でも戸籍外の人数が皆無ではなく、それを考えればどれだけの戸籍外人口が存在したのかを推測するのは困難なことと思われます。
それらの戸籍外人口を含めて数百万と言われると不可能とは言い切れないところはありますが正直な話、膨大すぎます。
洛陽県に所属する周辺の農村まで含めた首都人口2〜30万と仮定して実情は精々その程度が上限なのではないかとも考えているのですが・・・。
なにかその辺りの参考文献なり研究資料なりというものは存在するのでしょうか?
よろしくお願いします。

【3596】Re:長安遷都の人口移動の実情について
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2010/2/27(土) 16:44 -

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    こんにちわ。

>その数、数百万とも言われますが、実情はどのようなものだったのでしょうか。

 情報源や論拠を示さないまま、単に「○○と言われますが」とお書きになりますと、読んでいる方としては「誰が?どこで?」と疑問に持ち、それが史書の記述なのか、何かの論考なのか、質問者の独自研究なのか、単に質問者にとって情報源が不明なのか、判別付きにくい上に、その次に来るであろう検証の議論や「参考文献なり研究資料なり」の紹介にも進めないと思いますので、お節介ながら判る範囲で情報源を列挙しますね(余談と雑感ですが、これと同様に、研究者の名前を出した上で○○と言っているとか、情報源を的確に明記しない場合や適正に引用しない場合も、その研究者のものなのか、その書き込んだ人の独自研究なのか、さっぱり判らず、読んでいる人にいちいち情報源を確認する手間が発生してしまって、返って不親切だと個人的に感じてしまいます)。
 もちろん、私は質問者ご当人ではないので勘違いの可能性は大いにあります。

 まずその「数百万」ですが、下記のように『後漢書』列伝六十二董卓列伝の記述ですね。「洛陽人數百萬口」のところでしょうね。同じ記事でも『後漢紀』や『三国志』巻六魏書董卓伝には数は明記されていないですね。

於是盡徙洛陽人數百萬口於長安、歩騎驅蹙、更相蹈藉、飢餓寇掠、積尸盈路。卓自屯留畢圭苑中、悉燒宮廟官府居家、二百里内無復孑遺。

>明確な資料の残る140年当時(長安遷都の50年も前の資料ですが)の戸籍上人口は、洛陽のある河南で101万、司隷全体でも310万、総人口で4789万となっています。

河南尹やその年数の人口は『続漢書』志十九郡国志一の河南尹の条にある、

永和五年(紀元150年)戸二十萬八千四百八十六、口百一萬八百二十七。

の記述からで、他の人口はそこらへんの総数でしょうか。
 ここの議論と直接は関係しませんが、その『続漢書』の記述に先立つ注に引く『帝王世記』では、

永壽二年(紀元156年)、戸千六百七萬九百六、口五千六萬六千八百五十六人、墾田亦多、單師数征 。

となっており人口は5006万人強になっています。
 この記述に先立つところでは「民戸四百二十七萬〜」という記述があり、加えて、後の記述では「昔漢永和五年、南陽戸五十餘萬、汝南戸四十餘萬〜」と『続漢書』郡国志の南陽郡のところの「戸五十二萬八千五百五十一」、汝南郡のところの「戸四十萬四千四百四十八」と大体、一致しますので、少なくとも『帝王世記』の立場だと、『続漢書』郡国志の人口も『帝王世記』の人口も民の人口と思われます。つまり、『続漢書』郡国志にある河南尹の人口は民だけで、官吏や軍卒の人口が含まれていないように思われます。官吏の数は、『続漢書』郡国志の注に引く『漢官』に、例えば「河南尹員吏九百二十七人」、「([各隹]陽令)員吏七百九十六人」というように個別には書かれています(…とど忘れしましたが、洛陽あるいは中央の官吏や軍卒の総数はどこかに書かれていましたっけ?)。

 そのため、ポイントは『後漢書』董卓列伝自体の検討と、その記述の「洛陽人」(※おそらく洛陽県の人の意味かと)に吏卒がどれぐらい含まれていたか(軍卒についてはその記述に「歩騎驅蹙」とありますが、数は書かれていません)になるのかな、と思いました。そう考えると、未解決のツリー[#T3311]にも通じるところがあって、そこらへんにも議論が及びそうですね。

【3597】Re:長安遷都の人口移動の実情について
 スサノオ  - 2010/2/27(土) 23:13 -

引用なし
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   清岡美津夫さん
失礼しました。

> 情報源や論拠
> 「数百万」ですが、
おっしゃるとおり『後漢書』列伝六十二董卓列伝の記述ですね

〉140年当時(長安遷都の50年も前の資料ですが)の戸籍上人口
これは昔私が汲古書院出版の後漢書(影印本)の郡国志から書き出した資料ですね。
永和五年(紀元150年)の情報は抜粋してなかったので残念ながら詳細な資料はこれしか残ってません。
各郡国の城邑数と民戸・人数までですね。
確かに言われてみればこの数に官吏や軍卒の人口が含まれていないようにも思われます。
勿論、豪族が抱える私有民とか非服従勢力も居るのでしょうが・・・。

【3692】Re:長安遷都の人口移動の実情について
 グリ  - 2011/7/23(土) 10:02 -

引用なし
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   前漢 長安 歪な形 東側5940m 西側4550m 南側6250m 北側5950m 戸籍によれば24万6200人
唐  長安 東西9.7km 南北8.7km 80〜200万人説
北魏 洛陽 北魏時内城 東西南北約四km 現東垣残長3895m 西垣残長4290m

唐の長安を参考にして町並みを配置した都
平城京 東西4.3km 南北4.8km  7万4000人〜10万人前後(4〜5万人説もある)
平安京 東西4.5km 南北5.2km  8万8000人〜10万人前後(最大で20万人説)(朝日選書『平安の都』所収)

江戸の市街地の拡大 (内藤昌 「江戸―その築城と都市計画―」 月刊文化財 175号(1978年))
江戸時代 《市街地のみ》 79.8 km2 100万人都市

長安100万人説は無理がある。多く考えても15万前後が妥当ではないか?

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【3687】中国歴代戦争史について
紹介  SI  - 2011/6/4(土) 3:50 -

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   中国歴代戦争史は中華民国の三軍大学の作成した著作と思われます。(http://sites.google.com/site/myboooksindex/33-C-H-War/zhongguolidaizhanzhshi)から原文の繁体字版?と思われるものPDFが落とせました。原文が読めなくても豊富な地図があるので楽しめます。

【3688】中国歴代戦争史の閲覧方法
 SI  - 2011/6/11(土) 4:13 -

引用なし
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   見たい時代をクリックし、移動したページの一番下のほうにDownloadとあるのでクリックするとZIPファイルが落とせます。それを解凍するとPDFファイルが2つでます。1つは本文、もう1つは地図になってます。

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【3684】三国志時代の婚儀について
初心者質問    - 2011/5/29(日) 23:49 -

引用なし
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   はじめまして。灯と申します。
三国志について調べていたところ、こちらにたどり着きました。
最近、創作をしている関係で。この世界についてイロイロ知りたい!と思いましたが、如何せん・・・上手く調べることが出来ず・・・。
皆様のお力をお借りできれば幸いです。

○ 三国志時代の婚儀について
この時代の婚儀とは、どういった儀式を行うのでしょうか・・・。
今の日本式のように、お酒を酌み交わすことなのでしょうか。
また、誰か(神さまなど)に誓いを立てる、といったことはあったのでしょうか。
その時に、身につけるのはやっぱり正装、なんですよね、きっと・・・。

○ 貞操観念について
初心者の戯言、なのかもしれませんが、あまり貞操観念が薄いような気がするのですが・・・。戦に勝てば、奥さんだった人も、勝利者のもの、というかその人と結婚するコトだって、出来ちゃう時代なのですよね?
ですと、やっぱりその日まで貞操を守る、という日本の考え方というのは、そこに存在しないものなのでしょうか・・・。

もしお答え頂ければ幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。

【3685】Re:三国志時代の婚儀について
ひと言  清岡美津夫  - 2011/5/30(月) 0:52 -

引用なし
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   初めまして、清岡と申します。
創作をされているのでしたら、これから先、調べることが多々出てくると思いますし、調べる方法みたいなのを身に着けて頂く方が良いと思いますので、あれこれ書かずヒントになるように端的に書きますね。

▼灯さん:
>はじめまして。灯と申します。
>三国志について調べていたところ、こちらにたどり着きました。
>最近、創作をしている関係で。この世界についてイロイロ知りたい!と思いましたが、如何せん・・・上手く調べることが出来ず・・・。
>皆様のお力をお借りできれば幸いです。
>
>○ 三国志時代の婚儀について
>この時代の婚儀とは、どういった儀式を行うのでしょうか・・・。
>今の日本式のように、お酒を酌み交わすことなのでしょうか。
>また、誰か(神さまなど)に誓いを立てる、といったことはあったのでしょうか。
>その時に、身につけるのはやっぱり正装、なんですよね、きっと・・・。

それはここの掲示板でも何度か出ている『[#?礼記]』昏義篇が参考になるかと思います。
時代が後漢や三国時代より遡りますが、さほど制度は変わっていないと思いますので。
例えば「共牢而食.合[丞/巳]而酳.」てな感じで、男女が共に牲肉を食い、[丞/巳]杯で酒を飲む様が書かれています。
『礼記』の訳本はあれこれ出ていますので(例えば明治書院の新釈漢文大系シリーズ、それだと下巻に記載あり)、図書館で借りる等して読んでみると良いかもです。


>○ 貞操観念について
>初心者の戯言、なのかもしれませんが、あまり貞操観念が薄いような気がするのですが・・・。戦に勝てば、奥さんだった人も、勝利者のもの、というかその人と結婚するコトだって、出来ちゃう時代なのですよね?
>ですと、やっぱりその日まで貞操を守る、という日本の考え方というのは、そこに存在しないものなのでしょうか・・・。

まず具体例を探すことから始められてはどうでしょうか。もちろんそれだけだと木を見て森を見ず状態に陥りやすいかもしれませんが、少なくとも地に足の着かない議論にはならないかと思います。
[#T2635]
↑話的には近いようで違うのですが、考えの進め方としては参考になるかと思います。
今、そういった関係で思い付くのは『後漢書』列伝七十四列女伝の皇甫規の妻の話でしょうか。皇甫規が亡くなったとき、董卓が娶ろうとし、皇甫規の妻はそれを免れないと知り、董卓を罵って殺されてしまったって話です。

【3686】Re:三国志時代の婚儀について
   - 2011/5/31(火) 21:11 -

引用なし
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   清岡様、早い上にご丁寧な返信をどうもありがとうございました。
そうですね、これから調べることはいっぱいあると思います・・・。
(そもそも『礼記』というものがあることすら、知らなかったので・・・お恥ずかしいです)
貂蝉や甄姫の話を聞いて、驚いたといいますか・・・・。

でも、自分の知らない時代の歴史を紐解くのは、ワクワクします!
今回の回答、とても参考になりました。


本当にどうもありがとうございます。

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