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▼島津さん:
>はじめまして!
>三国志については偏った知識(しかも乏しい;)しか持ってないくせに、趣味で絵や文を書いている者です。
>周瑜が好きで、彼にまつわるお話などを手当たり次第に収集しているのですが、
>ふと疑問に思ったことがあるので質問させてください。
>
>孫策が皖城を攻めたときに周瑜とともに二喬を娶ったというのは有名ですが、彼女たちはもともと捕虜だったのですよね?
>捕虜・・・というと、イメージ的に牢屋に閉じ込めたりするのかなぁ・・・と思うのですが、捕虜の扱いについて当時どのようにしていたのか、ご存じであればどなたかお教えください。
>
こんにちわ。
二橋を娶ったところは下のような文ですね。
三国志呉書周瑜伝
頃之、策欲取荊州、以瑜為中護軍、領江夏太守、從攻皖、拔之。時得橋公兩女、皆國色也。策自納大橋、瑜納小橋。
<清岡のテキトー訳>しばらくして、孫策は荊州を取ろうとして、周瑜を中護軍領江夏太守とすることで、皖を攻めさせ、これを攻め取った。その時、橋公の二人の娘を得た。二人とも国色(国中一の美女)だった。孫策は自ら大橋を納め、周瑜は小橋を納めた。
この橋公と皖との関係(皖の守備側についていたとか、単に皖に住んでいたとか)について何も説明がない以上、捕虜になったと決めつけるのは早計のような気がしますね。
例えば三国志蜀書先主伝だと「布虜先主妻子」(呂布が先主の妻と子を生捕りにした)という表現が見られるので、「得」じゃなくて「虜」であれば確定なんですけどね(と例え生捕りにしたとしても三国志呉書で孫策や周瑜の負のイメージがつくようなことは書かれそうにないな、と自己ツッコミを入れてしまうのですが・笑)
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