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▼黄蓉さん:
> いつの時代の江南地域を指しているか分かりませんが、山越が日本
>に逃れたというのは、都市伝説のような部類です。
孫羽さんは山越とは言ってないですよ。
孫羽さんが言ってるのは親近感の事情なんで、江南から日本人の祖先が来たと考えると好感が湧くんでしょうね。
>海上に逃れて倭、
>つまり日本に流れ着いたという説は、歴史的に何ら重要な内容ではあ
>りません。
そう言い切れるからには色々とお詳しいんでしょうが、私は言い切るほど詳しくないので、留保させて頂きますね。
> これは、東日本に当時の文化的痕跡を示す遺跡が見つかっているに
>比べ、西日本にはほとんど見当たらないこともあり、流れ着いた可能
>性を立証するには極めて不利な状況です。*三国時代以前も含めます
これは弥生文化の遺跡分布の地域偏差を言っているんですよね。私は中国の夏殷時代の専攻なんで、そこら辺のことはあんまり詳しくないですけど。
> 邪馬台国の話もでていますが、魏晋南北朝当時の交易路は朝鮮半島
>経由で日本に向かうもので、倭も遼東の公孫政権と交易がありました
>し、同時に中国大陸の情報が少なからず伝わるため、倭からの外交使
>節が魏にたどり着いたルートは、朝鮮半島経由です。
たしかに当時、台湾は中国の外にあり、台湾から島嶼を伝って漢族の流民が日本に流れるのは困難極まる稀なことです。
漢族というより長江以南の先住民族を想定すれば、少しは条件が緩和されると思いますけど。
可能性があるということと、証明できるということは異なりますから。
> この交易路は竹簡研究関係の文物で証明されており、江南人が後の
>遣唐使や遣隋使のような困難な航海で海上に逃れる姿を想像している
>のは夢想に近いと思われます。
江南人というのが誰を指しているのか、時代によって異なってくるのですが、長江以南の先住民であれば航海能力を備えているものはいたようですね。
はっきりとしてるのは沿岸航海は可能だったということで、長江の河口付近から日本まで航海するような外洋航海になると未知数です。
> 呉の人々や中国の人々が倭に大量に流入するのは、魏晋南北朝の時
>代でも魏〜晋王朝の政治的混乱のはじまる3世紀頃から、時期はずれ
>込みますが、3度の大きな流入があります。彼らとて、朝鮮半島を経
>由して日本に入ってきており、その後の文化的発展に大きく貢献して
>います。
3度ですか。良ければいつのことを指しているのかご教授頂けますか?
> 少数の人間がたどり着いたみたい話はあくまで小説的な内容です。
>たどり着いたとしても、彼らは何もしていないのですから、歴史的に
>重要な内容ではない、ということです。
少数の人間がやったことを多数の人間がやったかのように評価することは黄蓉さんのおっしゃる通り慎むべきだと考えていますが、私は少数の人間がやったことでも歴史的に重要では無いと考えたりはしないですよ。
先史時代の奄美諸島とフィリピン群島との間の細々とした集落交易とか、少数でも面白いではないですか。
(奄美諸島とフィリピンの間をひとりの人が航海したということは証明されておらず、複数の人によってリレー式に他島間交易が行なわれたと想定するのが無難です。)
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