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私でよければ。
魏王(公)国にとってのギョウは、「魏」という曹操の領地の都であり、
漢の首都ではありません。
「ギョウ」は曹操の私有地内にある曹操のお屋敷で、
「許」は曹操が勤める会社の所在地、オフィスです。
曹操の漢の丞相としての仕事もあくまで「許」で行われるものです。
「ギョウ」は曹操の領地としての「魏」の仕事をする官庁があり、
そこで魏の相国などが仕事をします。
実際には「ギョウ」から曹操が指令を出していたにせよ、
漢としては「許」が首都で、もちろん皇帝も「許」にいます。
皇帝に面会(朝見)する時は曹操でも武器を持った衛兵に囲まれていたそうで、
曹操はそれがあって皇帝に会うのを嫌った、という話があります。
「許」では体面上は曹操も皇帝の臣下になるのです。
もちろん漢の皇帝の宮中行事は「許」が中心です。
司馬朗については、初平3年に司空の属掾になったとされているのですが、
(建安22年に47歳で死ぬ彼が22歳で曹操に誘われたことになっている)
この年はまだ曹操は司空ではないので、話が噛みあわないという問題が・・・。
それ以外は、初平3年(当時の司空は淳于嘉→楊彪)の司空属掾から
大体の年代を推定するしかないのではないでしょうか。
大体3年単位で人事評定・転任がある慣わしなので、
そのあたりが参考になるでしょうか。
あとは丞相主簿は建安13年以降だ、という位?
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