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【3702】矢傷が死因となった可能性
感謝♪  中彎  - 2011/10/14(金) 6:58 -

引用なし
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   清岡様

質問者の中彎です。

お礼が遅れました。書き込んですぐに、とても詳しいご回答をいただき、
感激しております。ありがとうございました。

「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
つまり右腕を挙げていたと想像されます。
右手で掲げていたのは、剣でしょうか。
矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
当時呉にはなかったのでしょうか。

周瑜の受傷部位などと言う、些末なことに関心を持った理由は、
もしかしたらこれが彼の死因になったかもしれない、と想像したからです。

『三国志』周瑜伝には、孫策と同じ年と書かれており、
だとすれば生年は、西暦175年でしょう。
同じく周瑜伝には、死亡時36歳、とありますので、
西暦210年に死去したことになります。

『赤壁』の決着が『三国志』武帝紀をみると陰暦で西暦208年12月のようで、
その後江陵攻防に移るのですが、
呉主伝ではこれが1年あまり続いたように書かれています。

はじめは夷陵の攻防があったりして、そのあとのことですから、
周瑜受傷の時期は、江陵戦の終結近くでしょう。

すると、受傷から死去まで、長く見ても1年程度と見積もられるのではないでしょうか。
その間周瑜は「劉備に宮室」の謀略を提案したりはしますが、たぶん陣頭には立たず、
久しぶりに戦場へ出ようとして、ほどなく病死したように見えます。

矢傷自体からは生き延びたが、体の奥に化膿巣が残り、
後にそこから全身に波及して、というようなストーリーを考えてしまいます。
正面から矢を受けるよりも体側部の方が、即死を免れるチャンスが高い気がします。

言いたい放題の長文、失礼致しました。▼清岡美津夫さん:

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【3700】「右脅」は「左鎖骨」? 中彎 2011/10/10(月) 13:56 教えて
┗ 【3701】Re:「右脅」は「左鎖骨」? 清岡美津夫 2011/10/10(月) 18:09 多分…
┗ 【3702】矢傷が死因となった可能性 中彎 2011/10/14(金) 6:58 感謝♪
┗ 【3704】Re:矢傷が死因となった可能性 清岡美津夫 2011/10/15(土) 0:19 雑談
┗ 【3707】深謝 中彎 2011/10/22(土) 8:56 感謝♪

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