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こんにちわ。
>その数、数百万とも言われますが、実情はどのようなものだったのでしょうか。
情報源や論拠を示さないまま、単に「○○と言われますが」とお書きになりますと、読んでいる方としては「誰が?どこで?」と疑問に持ち、それが史書の記述なのか、何かの論考なのか、質問者の独自研究なのか、単に質問者にとって情報源が不明なのか、判別付きにくい上に、その次に来るであろう検証の議論や「参考文献なり研究資料なり」の紹介にも進めないと思いますので、お節介ながら判る範囲で情報源を列挙しますね(余談と雑感ですが、これと同様に、研究者の名前を出した上で○○と言っているとか、情報源を的確に明記しない場合や適正に引用しない場合も、その研究者のものなのか、その書き込んだ人の独自研究なのか、さっぱり判らず、読んでいる人にいちいち情報源を確認する手間が発生してしまって、返って不親切だと個人的に感じてしまいます)。
もちろん、私は質問者ご当人ではないので勘違いの可能性は大いにあります。
まずその「数百万」ですが、下記のように『後漢書』列伝六十二董卓列伝の記述ですね。「洛陽人數百萬口」のところでしょうね。同じ記事でも『後漢紀』や『三国志』巻六魏書董卓伝には数は明記されていないですね。
於是盡徙洛陽人數百萬口於長安、歩騎驅蹙、更相蹈藉、飢餓寇掠、積尸盈路。卓自屯留畢圭苑中、悉燒宮廟官府居家、二百里内無復孑遺。
>明確な資料の残る140年当時(長安遷都の50年も前の資料ですが)の戸籍上人口は、洛陽のある河南で101万、司隷全体でも310万、総人口で4789万となっています。
河南尹やその年数の人口は『続漢書』志十九郡国志一の河南尹の条にある、
永和五年(紀元150年)戸二十萬八千四百八十六、口百一萬八百二十七。
の記述からで、他の人口はそこらへんの総数でしょうか。
ここの議論と直接は関係しませんが、その『続漢書』の記述に先立つ注に引く『帝王世記』では、
永壽二年(紀元156年)、戸千六百七萬九百六、口五千六萬六千八百五十六人、墾田亦多、單師数征 。
となっており人口は5006万人強になっています。
この記述に先立つところでは「民戸四百二十七萬〜」という記述があり、加えて、後の記述では「昔漢永和五年、南陽戸五十餘萬、汝南戸四十餘萬〜」と『続漢書』郡国志の南陽郡のところの「戸五十二萬八千五百五十一」、汝南郡のところの「戸四十萬四千四百四十八」と大体、一致しますので、少なくとも『帝王世記』の立場だと、『続漢書』郡国志の人口も『帝王世記』の人口も民の人口と思われます。つまり、『続漢書』郡国志にある河南尹の人口は民だけで、官吏や軍卒の人口が含まれていないように思われます。官吏の数は、『続漢書』郡国志の注に引く『漢官』に、例えば「河南尹員吏九百二十七人」、「([各隹]陽令)員吏七百九十六人」というように個別には書かれています(…とど忘れしましたが、洛陽あるいは中央の官吏や軍卒の総数はどこかに書かれていましたっけ?)。
そのため、ポイントは『後漢書』董卓列伝自体の検討と、その記述の「洛陽人」(※おそらく洛陽県の人の意味かと)に吏卒がどれぐらい含まれていたか(軍卒についてはその記述に「歩騎驅蹙」とありますが、数は書かれていません)になるのかな、と思いました。そう考えると、未解決のツリー[#T3311]にも通じるところがあって、そこらへんにも議論が及びそうですね。
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