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その兵士の数については,昔から研究があって,國淵伝の記述を根拠として,大体実数の10倍で記されていたと考えられています。ですから普通学術的にはその数の10分の1だろうと理解されています。
その実数,史料にある10分の1の数の内訳については,流民とみるのが妥当でしょう。その辺りは,増淵龍夫や大川富士夫,多田狷介といった人たちが研究していいます。
大体実数が3万で,そこから精鋭が選抜されたので,これより少ない数になると思われます。そもそもこの時点で,曹操が三万全てを維持できる経済的基盤はないですし。昔からある官渡の際の兵力問題とも関係する話ですしね。
あとは,この時代の軍制についての知識が必要になってくるかと思います。基本,強力な中央軍が存在しない時代から,徐々に常設軍が置かれるようになっていく時代で,まだこの頃は,所謂中央軍的なものは,規模の大きいものは存在しません。基礎知識については,古典中の古典である濱口重國の研究があるので,そちらを参照されるのがよいでしょう。
その後の選ばれなかった人々は,本籍地に戻ったか,戸籍に入れられたか,南方に流れたかは史料がないのでわかりません。ただ前提にある30万に100万という数が胡散臭くて,普通は3万に10万と考えられるので,そこから精鋭をひいて残った数は数十万単位の突拍子も無い数ではなく,常識的な数になるので,どうなったとしても,それほど意味を持つとは思えませんが。
普通は流民は関東のは荊州・揚州へ,関西のは益州に流れるというのが一般的ですけれど。
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