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▼馬秉さん:
>辺境では城門の周りにさらに長城があるのですね。2重の守りということですか。さらに烽火台。2重3重の守りから、国を守る必死さが見受けられます。
>居住地もあるということで前述とは異なっていて驚きましたが、辺境ともなると土地の関係により居住地域が限られ、結果立地の良い関所に住む事になったのでしょうか?
>パスポートの存在に非常に驚いたのですが、これは通行証とほぼ同じ意味をなすという見かたでとってもいいのでしょうか?亡命者のチェックのためにこういった類の物を作ったのでしょうかね?
ちょっと私の説明が悪かったですね。
エチナ河流域というのは、ゴビ砂漠の中のオアシス地帯で、農耕が可能ですが、この地域は、匈奴が中国へ侵入する通路に使われました。そこで、匈奴の侵入を防ぐために、漢は、ここを長城で囲い、居延県という県を置きました。
居延懸索関と肩水金関は、その居延県へ入るための関所です。砂漠地帯ですから平地にあり、長城(関城)を通り抜ける門になっています。これは、疏勒河流域の玉門関や陽関も同じです。
その城門を入ると、右側に塢があります。塢とは土壁で囲まれた区域で、役人や守備兵の居住区になっています。実際の居延県の住民が住んでいる地域は、このずっと奥にあります。
塢の一隅に烽火台があります。烽火台は望楼と小さな塢で構成されています。この中に執務室や倉庫があったのではないかと推定されているのは前述の通りです。
長城は、日干し煉瓦を土台にして、その上に砂礫とそだを積み重ねて作られた壁ですが、現在は風化して残存常態は良好とはいえません。甘粛省の考古学者の調査によると、幅が2メートルの壁と1.7メートルの壁が6メートルくらい離れて二重に設置されていたようです。高さはわかりません。ここに1〜3キロメートルごとに望楼が設けられ、匈奴の侵入を監視していました。肩水金関の望楼も、その一部をなしていたことになります。
居延県は漢代には張掖郡に属していましたが、献帝の興平二年に一郡一県の西海郡居延県になりました。
そのあと、居延県や肩水金関がどの位存続したかはわかりませんが、『晋書』地理志上に西海郡は戸二千五百として載っていますから『三国志』の時代に存続していたことは確かでしょう。
「符」(通行証)は無記名の割符になっています。「致」(短距離旅行者用のパスポート)は出関しようとする人の申請書に許可が与えられる形式になっています。形式の違いだけだろうと思います。どちらも出土した木簡です。
この目的ですが、これは亡命者のチェック用ではないでしょう。それより、漢や魏の国内では、住民が勝手に移動することを禁止していたのではないかと思います。そのために、関所を通るには、このようなものが必要だったのではないでしょうか。もちろん、結果として亡命者のチェックにもなるわけですが・・・
委面如墨
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